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あの男は、だめだ。 と、ロジェストウェンスキーは、この駆逐艦の艦長コロメイツォフ中佐の硬骨を不愉快に思ったかと思われる。コロメイツォフ中佐は敷布を引き裂く時に、 「この艦の指揮権は艦長としての自分にある。わがロシア海軍の司令長官を敵国の俘虜
として引き渡すことは出来ない」 と言ったのである。 この言葉は少なくとも幕僚たちを失望させたことだけは確かであった。 夜が明けると、小さな幸運が訪れた。 水平線上に三隻のロシア軍艦が煤煙ばいえん
をあげて進んでいるのを見た。装甲巡洋艦ドンスコイと二隻の駆逐艦だった。駆逐艦はグローズヌイと、なんと提督がもっとも寵愛していたバラーノフ中佐を艦長とするベドーウィであった。 すぐ信号によって連絡がとれ、四隻の軍艦は洋上で一つになった。ついでながらこの間かん
のあやしげな幕僚会議には記録者のセミョーノフは参加せず、昏睡していたとしている。従ってセミョーノフの手記はこの機微を語るくだりについては巧妙に海霧を漂わせて自分の気持の正体を晦くら
ましている。 ── どの艦を選ぶか。 ということになった。常識で言えば装甲された六二〇〇トン、十七ノットの巡洋艦ドンスコイを選ぶべきであろう。巡洋艦だけに石炭搭載量も多く、ウラジオストックまでの燃料の心配はない。途中砲戦をしても装甲があるため駆逐艦より安全であった。 コロメイツォフ艦長も、海軍の専門家としての当然の判断から、
「ドンスコイにお移り願えますか」 と提督に念のために聞いてみたのである。 ところがロジェストウェンスキーは、はっきりと 「ベドーウィに移る」 と言った・駆逐艦を選んだというのも異様だが、ベドーウィの艦長バラーノフ中佐は、あの海戦中、おあくまでも旗艦スワロフの通報艦としてそのそばを並航していなければならないにに混乱にまぎれて離脱してしまった男だった。提督はそのことをこそ責めるべきであったのに、逆に座乗艦としてベドーウィを選んだのは、しばしば臆測されているように、バラーノフ中佐というこの専門技術に乏しい、しかしながら官庁の出入り商人のようにおべっかのうまいというその点を見込んだのかも知れなかった。 それにしてもロジェストウェンスキーという男は何のためにおsの大艦隊を極東まで引っ張って来たのであろう。彼の戦略目的によれば
「数艦でもいい、ウラジオストックに走り込めばそれ自体が日本の戦略を大きく拘束する」 ということであった。そのとおりであった。 それなら、この地点からうまく突っ走れば同港まで一昼夜半である。ところが、彼はその戦略よりも自分の生命のほうを貴重とした。彼の移乗作業のために、この四艦を一時間以上拘束した。ロジェストウェンスキーは移乗用のボートをおろさせた。 提督は彼のお気に入りの駆逐艦ベドーウィに移ったとき、 「この艦に白旗があるか」 と聞いたと言う話がある。この重大な発言は幕僚がそういったともいわれ、提督自身が唇を動かしていったともいわれている。提督の発言だという説には、信号兵一人、伝令兵一人の証人があった。いずれにしてもいざという場合にはこの提督とその幕僚は降伏するつもりでいたのである。 |