ロジェストウェンスキーがこの水域まで到達したことについての経緯
には、多少の謎が含まれている。 二十七日午後五時半すぎ、期間スワロフを捨てた彼は、彼がかねて憎悪していたコロメイツォフ中佐の駆逐艦ブイヌイに移乗した。この艦長の船に身を横たえねばならぬということは、提督にとって居心地がよくなかったに違いない。 提督は狭い艦長室に運ばれ、軍医の手当てを受けた。そばにいたセミョーノフに瞳を向けると、 「指揮権をネボガトフに。──」 と、聞きとれぬほどの小さな声で言った。はじめて指揮権移譲についてについての意思を明瞭にした。しかし第三戦艦戦隊を率いているネガトフがどこにいるのか分からなかった。 ブイヌイはたまたま出遭った他の艦に対し、手旗信号をもって、
「ネガトフ少将の旗艦ニコライ一世を探し出して以下の旨をつたえよ」 と、命じた。 提督はさらに、自分が捨てた旗艦スワロフの長官旗を降ろすな、と命じた。スワロフの現状は長官旗を掲げるようなマストなどなかった。コロン参謀長がその旨を言うと、 「ボートの橈オール
にでも結びつけろ」 と、憤然と声を放ったというから、この提督の精神の構造は理解し難いものがあった。長官旗を掲げるならこの駆逐艦ブイヌイのマストにこそひるがえるべきであった。 多数の乗員をスワロフに置き捨てていながらなおスワロフに長官旗を掲げさせようというのは、日本側の注目をスワロフに集めさせて自分だけはkの目立たぬ駆逐艦で逃走しようというつもりであるのかも知れなかった。 黒い塗料を塗られた四本煙突、二本マストのこの駆逐艦ブイヌイは懸命に走った。 ところが夜半、機関が急に力を失いはじめたのである。 提督に艦長室を提供してしまったコロメイツォフ中佐はずっと艦橋にたが、様子がおかしいというので機関室に降りてみると、蒸気の力がうんと落ちていた。汽罐に海水を使用しているために滓かす
が厚くなり、このため石炭をいくら焚いてもおもわしい出力があがらないうえ、他に作動しない部分も出ており、この調子では手持ちの石炭が計算よりも早くなくなりそうであった。 艦長はやむなく幕僚たちの部屋へ行き、この旨を報告して再び機関室に戻った。 その間かん
、幕僚たちの間で降伏の申し合わせが出来上がったのである。この艦を日本のどこかの浜に着け、提督をボートで上陸させたあと、艦を自沈せしめようというもので、コロン参謀長らはその結論をもって提督の部屋へ行った。提督は、 「自分に顧慮するな。諸君がこの際必要であると信ずる決心を断行せよ」 と、意味やや不明なことを言った。要するに任せるということであった。 このあとコロン参謀長は、わざと艦長には言わずウールムという大尉をつかまえて
「白旗の用意をせよ」 と言った。敷布シーツ
でいい、とも言った。同大尉はその命令に従って調達した。 が、艦長はその直後、この事実を知り、敷布を引き裂いて海中に捨て、 「この悲劇中に喜劇を演ぜんとするか。自分はロシア海軍の艦長である」 と、叫び、艦橋へあがってしまった。 |