針路は、東郷に命ぜられているように、鬱陵島である。漣と陽炎は、懸命に海面を引っ掻きながら航走したが、敵艦どころか味方の艦影も発見できなかった。 昼も過ぎてしまった。 この漣に、塚本克熊という、広島県出身で、明治十三年生まれという若い中尉が乗っていた。未婚だったが、婚約者がいた。マスという少女で、塚本は暇さえあればこの婚約者に手紙を書いていた。 塚本は画才があった。とくに油絵の腕が素人ばなれしているほどに達者で、勤務の余暇にはよくスケッチしていた。彼は少年のころ東京美術学校へ行って画家になろうと思っていたが、しかしちょとおしたはずみで兵学校を受験する気になり、うまく合格したため海軍士官になってしまった。もっとも長男の塚本張夫氏は画家だから、子息の代になって塚本克熊の夢は実現したと言えるかも知れない。ただし、塚本克熊が画家になっていればロジェストウェンスキーは捕虜になるような運命におち入らずに済んだであろう。 塚本中尉の配置は、開戦後、はなやかな現場から遠ざかった。
「開門」 という古い海防艦に乗って機雷をとりのける掃海の仕事をしていた。その開門が触雷して沈んでからは、他の乗組員と共に一時、三笠に収容された。 その三笠で、東郷を知った。塚本は東郷にせがんで、その双眼鏡を見せてもらった。 ドイツのカール・ツァイス社が開発したプリズム式のこの双眼鏡が驚異的な倍率をもっているということは塚本は聞いていたし、この双眼鏡は東郷しか持っていないことも知っていた。実際に手にとってのぞいてみると、想像をはるかに超えるほどのものであった塚本はそれが欲しくてたまらず、 ──
同じものが欲しい。 といって、さっそく銀座の玉屋に注文した。玉屋はそのころ、横浜の十番館のコロン商会のサブ・エージェントをしていた。この時期、コロン商会にたまたま一つか二つ在庫があったのであろう。おどろいたことにそれが対馬の駆逐艦の基地にいた塚本宛に送られて来たのである。値段は、三百五十円であった。 「そのころの中尉の給料の一年分でした」 と、未亡人マスさんは言われる。マスさんは明治十九年生まれで、この稿のこの時期、八十六歳である。 この塚本中尉が、自慢のプリズム双眼鏡で四方をながめていた。他の者は艦に備えつけの一本メガネといわれる望遠鏡でながめていた。 午後二時十五分ごろ、鬱陵島に近づいた。このとき前方沖合いに二すじの煙が空を薄く染めているのを塚本のプリズム双眼鏡がとらえたのである。 「あれは。──」 と、塚本は言葉ももどかしく叫び、相羽に自分の双眼鏡をわたした。相羽がのぞくと、なるほど駆逐艦らしかった。二隻いた。 この先頭の駆逐艦に、ロジェストウェンスキーが乗っていたのである。もし塚本のプリズム双眼鏡がなかったとすれば敗残の提督はうまくウラジオストックに逃げることが出来たであろう。
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