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全艦体は鬱陵島
に集合せよ。 ── 駆逐隊・艇隊は夜襲。 というのが、東郷が大小すべての艦長・艇長に徹底させていたプログラムだった。 この日から翌二十八日にかけ、この海域における無数の現場に居あわせた人びとの感想をランダムに羅列しておく。 当時三笠乗組みで三インチ砲の部署で働いていた四等水兵石原清松の記憶では、 「その日
(二十七日) の戦闘で疲れて、夜は早くから休みました。翌二十八日朝、 “総員起し” で上甲板の清掃が始められました。そのとき各部の損傷がまったくひどいのにあらためて驚きました。この日
(二十八日) は前日とはうって変わって風は凪な
ぎ、波もおだやかでした」 と、あって、石原氏のこの記憶ではこの夜から翌朝にかかけての三笠の艦内は拍子抜けするほどに日常的である。 同艦乗組みの軍楽手で戦闘中伝令をつとめた河合太郎氏の記憶では、二十七日夕、戦闘が終わった時、上甲板に立って、
「お母さん、無事でしたよ」 と叫んだと言う。河合氏が下士官浴室をのぞくと、そこは死体安置所になっていた。戦死者が重ねて積みあがられており、浴槽には水が張られていた。水は真っ赤になっていた。艦の動揺とともにゆれていた。 艦は波で動揺しているだけではなかった。機関による振動が加わっていた。レシプロ式蒸気機関を積んだ戦艦というのは、普段は振動を感じさせない。馬場良文氏は大正四年の海軍兵学校入校だから日露戦争の参加者ではないが、レシプロ式軍艦の経験がふるい。馬場氏によると、
「方向転換をしたり速度を変えたりする時にはシューシューという蒸気を吹く音がします。しかし機関による振動は全速くらいにならないと出て来ません」 という。河合氏の記憶ではこの夜、鬱陵島に向かって突っ走っている三笠は、
「艦はガタガタと不気味に振動していた」 と言うから、汽罐かま
をいっぱいに焚た き、全速力をあげていたのであろう。 夜戦による水雷攻撃という、いわば落武者狩りを担当していた五十余隻の小艦艇は敵艦のサーチライトと砲撃をおかして駈けまわっていたが、その状況下にいた徳田伊之助翁の話をかかげる。徳田翁は明治十三年、山口県生まれ、同三十二年海軍兵学校入学、この戦闘においては中尉で、駆逐艦夕霧の乗組みだった。 四隻で隊を編成している。司令は広瀬順太郎中佐で不知火しらぬい
、叢雲むらくも 、夕霧、陽炎かげろう
で、二四七トンという小さなふねだった。 この駆逐隊も、他の艦艇と同様、残骸のスワロフを発見し、フルスピードで接近した。この時刻は、あとで翁が記録と照合したところではロジェストウェンスキーが駆逐艦へ移乗中だったかも知れないという。
「しかしこちらの反対側でやっていたのか気づかなかった」 。フォン・クルセリ少尉候補が放った艦尾左舷の小口径砲の閃光も見た。閃光と同時に不知火に黒煙があがった。命中したのではなく、炭塵たんじん
があがっただけであった。 「スワロフの縄梯子リギシ
に水兵たちが鈴なりにぶらさがっていて、しきりに助を求めるのです。その顔をいつまでも覚えています。助けようにも戦闘中で不可能でした。スワロフを他に任せてさらに行きますと、波間で助けを求める声がしきりに聞こえました。目をつぶって行かざるを得ませんでした。赤い艦底を出した敵艦が浮かんでいました」 と、以上は徳田翁の話である。 |