〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/05 (土) 

死 闘 (二十)

三笠の東郷が、この日の昼間戦闘の終了を命じたのは、午後七時十分である。
三笠がまず砲撃をやめた。
つづく各戦艦が次々に射撃をやめ、同二十分、予定どおり野戦配備に移るべく艦隊を北方に変針せしめたが、この変針の直前、富士が放った十二インチ砲弾が六千メートルを飛んで戦艦ボロジノに命中し、汽罐が爆発し、つづいて火薬庫に火がまわりついに大爆発をおこし、ほとんど一瞬で沈んでしまった。すでにボロジノはこの時期までに艦内の将校はほとんど戦死して指揮者もいなくなっていた。この艦は文字どおりの轟沈であったため生者も死者もことごとく艦とともに沈み、その沈没水域で日本の駆逐艦が救い上げた浮遊者は水兵ただ一人であった。
さらにこの日、ずっと火災と左舷傾斜にもだえつづけていた戦艦アレクサンドル三世も、ボロジノより二十分ばかり前に沈没した。
これによってバルチック艦隊の決戦兵力であった新式戦艦五隻のうち四隻までが沈み、ノビコフ・プリボイの乗っている戦艦アリョールのみがわずかに暮色にまぎれて逃れ去ることが出来た。もっともアリョールは二門の小型砲をのぞき備砲の大部分を破壊され、牙をくだかれた狼同然になっていた。
ネガトフ少将の率いる旧式戦艦一隻と装甲海防艦三隻 (第三戦艦戦隊) は幸運にも現場を脱することが出来た。
「ワレニ続航せよ。針路、北二十三度東」
と、ネガトフは旗艦に信号を揚げた。ネガトフにすれば夜を徹して蒸気をあげ、ウラジオストックに逃げ込むつもりだった。いずれも旧式および小型の戦艦・海防艦で装甲はもろく、速力は遅かったが、神がもし恩寵を与えてくれるとすればウラジオストックへの到着は可能かもしれない。この五月二十七日の昼間においては神よりも東郷が恩寵を与えてくれた。第三戦艦戦隊は旧式であるがために東郷の主力はこれを半ば黙殺し、第一、第二の戦艦群ばかりに攻撃を集中したのである。
東郷は、午後七時二十分、この日ずっと立ちっぱなしていた艦橋からはじめて靴の底を離した。
真之も、動いた。
加藤も動き、疲れの浮き出た横顔をみせて左舷の沖をちょっと見、やがて東郷を先導するようにして艦橋を降りた。
海上はもはや海戦が不可能なまで暮色が濃くなりはじめていた。三笠はなおも激しく波を切っており、二番艦の白波が暮色の中に見えた。三番艦は艦影も見えなかった。
針路は北をさしている。
海戦は、真之のいう、
「七段構え」
の第一段目を終了した。第二段目は夜襲である。夜襲は五十余隻の駆逐艦、水雷艇の受け持ちであった。彼らは夜明けまで一睡もしないであろう。
夜が明ければそれらの小艦隊は引っ込み、ふたたび主力艦隊が舞台に出て第二日目の決戦を行う。そのために東郷の主力艦隊は今夜高速力でウラジオストック方向に走り、敵の残存艦隊の前途を扼してしまわねばならないのである。それが、第三段目である。
(第三段目だけでおわりそうだな)
真之は艦橋を降りながら思った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next