〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/05 (土) 

死 闘 (十九)

やがて駆逐艦ブイヌイは勢いよく後進をかけ、旗艦スワロフから離れた。
「ときに午後五時三十分だった」
と、セミョーノフ中佐は腕時計によってその時刻を記録している。
ブイヌイは艦首を北東へ向けると、全速力でウラジオストックへ向かった。
戦場にスワロフが孤艦として残された。
左舷を海面へ傾けて漂泊している。艦内にはまだ数百の生命が残されていた。さらに数百の死者も残っていた。その死者の中に、造船技師ポリトゥスキーもいた。彼が故国の若い妻に送りつづけた膨大な量の手紙はロジェストウェンスキー航海の貴重な記録として後世に残された。
ポリトゥスキーの戦闘中の職務は、
「医務の補助」
ということになっていた。戦闘中、セミョーノフ中佐が目撃したところによると、ポリトゥスキーは手術室で白衣をつけ、赤十字の繃帯wp手に持っていた。彼はこの姿のまま手術室付近で戦死したかのようである。
が、ポリトゥスキーの妻が戦後、たれから聞いたのかはわからないが、この技師は艦体にあけられた穴をふさぐために艦底にもぐりこんで指揮をとっていたという。ロ提督が駆逐艦に移るとき、生き残った幕僚たちはみな従ったが、この技術幕僚には声がかからなかった。もしその妻の得た消息がたしかであるとすれば彼は艦底にあって艦を救うために作業をしていたのであり、そのまま艦もろともに沈んだことになる。ポリトゥスキーはその妻に対してロジェストウェンスキーがいかに冷酷な提督であるかということを書き送りつづけたが、最後にそれを裏付けるような仕打ちに遭って、生から死へ送り込まれたことになる。ただしこの若い造船技師はその死後、その提督に対する痛烈な告発者になった。その妻が、この造船技師が送りつづけた手紙をことごとく出版したからである。
夕闇が迫るころ、日本の駆逐艦や水雷艇が魚雷を抱いて戦場をかけまわりはじめた。
このころ、日本海軍にあっては水雷戦の特殊なシステムが考案され、実施されていた。
個々の水雷艇というのはあたかも指一本のように弱々しいものだが、しかし五本の指を握って拳固げんこ にすれば敵への打撃は強くなるという考え方で、四隻ほどかたまって行動することになっていた。
富士本梅次郎少佐は、第七十三号艇に乗り、四隻のちっぽけな艇を指揮していた。彼らは敵と戦うよりその前に風浪のために覆没する危険性と戦っていたが、午後七時すぎ、スワロフを発見した。そのころ、日本の第三艦隊に属する小さな巡洋艦たちがすでにスワロフを発見しており、中小口径砲をもって射撃していた。その中小口径砲はカムチャッカを破壊し、あとで魚雷をもって沈めることが出来たが、しかしすでに漂泊する廃墟とはいえ、戦艦のスワロフは容易に沈まなかった。
富士本の四隻の水雷艇は浪を蹴って直進し、三百メートルの至近距離まで近づき、数本の魚雷を送った。二本が命中した。
そのとき、スワロフにたった一門残された艦尾の三インチ砲が最後の火を吐いた。
少尉候補生フォン・クルセリが発砲したものであり、この最後の咆哮ほうこう が終わるや、艦体は左舷が海中に入り、ついで赤い艦底を見せたかと思うと大きな渦を残して姿を消した。富士本はその報告において 「スワロフの最後の砲火」 について印象的な一句を書き入れている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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