〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/05 (土) 

死 闘 (十八)

思い合わせてみると、ロジェストウェンスキーは、世界史が持ったこの最大規模の海戦において一方の主将として指揮らしい指揮をほとんどすることなく、また東郷のためにその出演時間さえわずかしか与えられず、今は運搬されるだけの物体になってしまった。
運搬は難事業だった。壊れた砲塔扉からこの大男が運び出された時、作業に従事した人びとはすでにへとへとになった。
この作業の指揮を取った士官は、艦長ではなかった。あの快活だった艦長はすでに死骸になっていた。副長もおらず、他に二、三の大尉がその辺りにうずくまっていたが、負傷のため動けないのか、それとも艦を捨てて脱出しようとする司令官や幕僚たちに好意を持たなかったのか、指揮をとろうともしなかった。
率先してこの指揮に当たったのは少年のように幼い顔をした少尉候補生のクルセリだった。フォン・クルセリという茶目で敏捷びんしょう でちょっと頭の抜けたところのある青年は、この旗艦のすべての士官のマスコットのような存在だった。
彼は子供のときからの商船乗りで、海軍における正規の士官養成コースを経ておらず、そのために平素はあまり役立っていなかった。ところが戦闘が惨烈になるにつれ彼は信じられぬほど沈着になり、艦内のあちこちを飛びまわっては消火の指揮をしたりした。
セミョーノフ中佐はあまり人好きのする男でなかったが、クルセルはこの男にはよくなつき、絶えず冗談を言い、茶目を演じた。セミョーノフが艦がめちゃめちゃにやらている真っ最中に自分の私室の様子を見に行こうとしたことがある。途中、クルセリに出遭った。
「ぜひご案内しましょう」
と笑いながら、地理感覚を狂わせるほどに破壊された場所を通りぬけて案内に立ち、部屋のそばまで行くと、
「どうぞ御休憩を」
と片手をのばした。部屋は一歩も踏み入れないまでにこわされていた。セミョーノフはこの期になっても茶目をやめないクルセリに腹が立ち、怒鳴りつけて去ろうとすると、クルセリは追っかけて来てセミョーノフの手に葉巻を一本握らせた。
「そいつはうま いですよ」
言い捨てて駆け去ったが、そのクルセリが、ロジェストウェンスキーの運搬を指揮している。彼は翼のついた天使のように提督の前後左右を飛び跳ねつつ運搬作業をすすめてゆくのである。
クルセリは提督を げた吊床ハンモック に寝かせ、吊床ごと縄でしばった。さらに万一海中に落ちたときの用心のためにいかだ のようなものを縛着ばくちゃく した。
彼はその提督ぐるみの筏を艦の後方まで運び、後部六インチ砲塔前の切断舷という断崖のような形のところまでおろした。そこで駆逐艦ブイヌイがせりあがって来るのを待った。駆逐艦は小さい。戦艦の右舷舷門あたりまでとどくには大波にせりあげてもらうのを待たねばならないのである。
ついに、移した。
他に生き残りの幕僚 (参謀長、航海長、セミョーノフ中佐など) の移った。
その機会に何人かの士官や兵員も飛び移ったが、しかし八百人以上の乗組員は艦に残った。もっともそのほとんどは提督が艦を捨てたことを知らず、火の中か、戦時治療室かあるいは持ち場にいた。クルセリも艦を去らなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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