〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/02 (水) 

死 闘 (十七)

この海戦は多分にロジェストウェンスキーにとっていわば劇的な人間表現であるといえたが、しかしいかなる劇作家でも以下のような偶然はそれを設定することをはばかるであろうと思われるほどの事態が彼を訪れつつあったのである。
ロ提督がもとも嫌っていた駆逐艦の艦長がいた。ブイヌイのN・N・コロメイツォフというまだ三十八歳の中佐で、艦隊随一といってもいいほどの駆逐艦乗りとされ、彼の海軍知識や技術はそのまま英国海軍に編入されても一流の船乗りとして通用するだろうと言われていた。ただ自分の腕に自信を持っている人物にありがちな倣岸ごうがん さ ── 上官に対しての ── を持っており、兵員たちからもっとも人気のある艦長の一人でありながらロジェストウェンスキーからは、無能、陳列の紊乱者びんらんしゃ 、勝手者などという言葉でもって罵倒されていた対象であり、あの長い航海中、しばしば信号旗でもって名指しでののしられた。ロ提督にとってはベドーウィのバラーノフ中佐が善玉でありコロメイツォフ中佐はそれと対蹠的たいせきてき な悪玉で、しかも一般の士官や兵員から見れば逆であるという、安っぽい田舎芝居でもこれほどぬけぬけした設定はしにくいと思われるほどの設定のもとに彼らは存在していた。
コロメイツォフ中佐が指揮している駆逐艦ブイヌイは実によく働いた。働くといっても、戦闘ではなかった。もともと駆逐艦は敵に肉薄して魚雷をぶっ放す兵器であったが、ロ提督の戦法ではそのようにしては使わず、もっぱら救助用に使っていた。ブイヌイは乱戦の中での勇敢な救助者としてよく働いた。ブイヌイは真っ先に沈んだ戦艦オスラービアに対し、弾雨を冒して接近し、海面に漂う二百四人を救い上げ、わずか三百五十トンという小さな艦に収容した。
乗員と被救助者で艦は満員になった。そのあとブイヌイは味方の巡洋艦を発見し、その殿艦に追っつくべく走っていたとき、海上に漂っている旗艦スワロフの残骸を発見したのである。もっとも形体こそ残骸だったが、まだ呼吸が残っている証拠に、スワロフは微速ながらも針路を南にとって動いていた。
よろこびがスワロフに湧きあがった。
中央六インチ砲の砲塔の廃墟のそばにいたセミョーノフ中佐は、右脚を骨まで砕かれていたが、このよろこびをロ提督に伝えるべくカカトで歩行し、やっと右舷中部砲塔にたどり着いた。その中に入ると、ロ提督はすわっていた。頭を垂れていた。その様子は人間というよりボロギレのようであった。
セミョーノフは、
「長官、駆逐艦が来ました」
と、抱きつくようにして叫んだ。
ロジェストウェンスキーは、この旗艦からもこの戦場からも逃げ去るつもりであった。しかし単身逃げれば軍法会議その他での批判が悪くなるかもしれない。司令部をブイヌイに移すという形をとればよかった。ロ提督を英雄に仕立てるべき役割だったセミョーノフでさえ、そのことに触れざるを得なかった。ロ提督がこの時言った言葉は、
「フィリポゥスキーを連れて来い」
ということだけだった。この大佐は航海参謀で、航海参謀さえ連れていれば提督は全艦隊をなおも指揮する意思を持っていたという後の証拠になる。 「提督は名目だけでも全艦隊を指揮しなければならなかった」 とセミョーノフは書いている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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