──
三笠以下がふたたび出現した。 というのは、ロシア側にとって悪魔との邂逅
のようなものであった。 海戦というのは広い海域の中で艦船が高速で走りまわるもので、しかも互いの認識は眼鏡がんきょう
程度のもにに拠よ っており、いったん敵味方が離れ、水平線上のかなたに没してしまうと容易に遭遇できない。まして視界をさえぎる濛気がある。しかもロシア側は振り切ってなんとか逃げようとしている。こういう絶対的な、あるいは相対的な条件下でふたたび相あい
遭あ うなど、奇蹟に近かった。 しかもただの遭遇ではなかった。上村の巡洋艦隊が、大浪を艦首でくだきながらロシア側を南から追っかけているのである。そこへ東郷の三笠以下の戦艦戦隊が西方の沖合いから現れた。 ロシア側は挟撃されるかたちになった。 この日本側の光景を燃え上がる旗艦スワロフからながめていたセミョーノフ中佐は、日本の戦術運動が神技というほかないというような感嘆をもって述べている。 しかし出雲の艦橋にあった佐藤鉄太郎は、 「運だった」 と、戦後、冷静に語っている。 佐藤が戦後、海軍大学校の教官をしていたとき、梨羽なしは
時起ときおき という海軍少将が遊びに来て、 「佐藤、どうしてあんなに勝ったのだろうか」 と、梨羽は彼自身実戦に参加しているくせにそれが不思議でならない様なことを言った。たしかに奇妙すぎた。科学的に探求し得る勝因というのは無数に抽出ちゅうしつ
して組織化することは出来る。しかしそれでもなお不明の部分が大きく残る。なにしろ人類が戦争というものを体験して以来、この戦いほど完璧かんぺき
な勝利を完璧なかたちで生みあげたものはなく、その後もなかった。 「六分どおり運でしょう」 と、佐藤は言った。梨羽はうなずき、僕もそう思っている、しかしあとの四分は何だろう、と問いかさねた。佐藤は、 「それも運でしょう」 と言った。梨羽は笑い出して、六分も運、四分も運ならみな運ではないか、と言うと佐藤は前の六分は本当の運です、しかしあとの四分は人間の力で開いた運です、と言った。 佐藤は決して自分の手柄であるとも秋山真之の手柄であるとも言わなかった。真之自身が、
「天佑の連続だった」 と言っているのである。 ただ佐藤はこの説明のつかない 「六部の運」 について海軍大学校の講義で、 ── 東郷艦長はふしぎなほど運のいい人であった。戦いというのは主将を選ぶのが大切である。妙なことを言うようだが、主将がいかに天才でも運の悪い人ではどうにもならない。 と述べたことが残っている。 もしこの海戦において勝利をもたらした無数の人間の中でただ一人の名をあげよと言えば、この海域にいない山本権兵衛であったであろう。彼は、舞鶴鎮守府長官という閑職にいて予備役を待つばかりの境涯にいた東郷を抜擢し、明治帝がおどろいてその理由を聞くと、 「東郷は運のいい男ですから」 と、答えた。山本は歴史を決定するものが、佐藤のいう
「四分の運」 のほかに 「六分の運」 がるという機微を、それ自体異様なことだが、知っていたのである。 |