〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/31 (月) 

死 闘 (十三)

ロシア側は、惨澹たる状況になった。
出雲の艦橋に立っている佐藤が、
── 敵は、北走するつもりではないか。
と判断していそぎ陣形を変えたのは、的確であった。佐藤はやや奇癖性を持つ作戦臭があり、大作戦計画の立案ろいう点では真之に及ばなかったが、しかし現場現場での処理では、剣客のような神秘的な応変性があった。
事実、ロシア側は北走しようとしていた。
この間の事情は、錯綜している。ロシアの第二戦艦戦隊の方は旗艦オスラービアが沈んだため二番艦のシソイ・ウェリーキーがこれに交代した。が、この艦もすぐ大火災に包まれて列外におちてゆく。
第一戦艦戦隊は、旗艦スワロフがすでに浮かぶ廃墟になった。代わって二番艦アレクサンドル三世が先頭に出て来たが、これも集中射撃を受け、列外へよろめき出た。
かわって、三番艦のボロジノが先頭に出た。このボロジノの艦長セレーブレンニコフ大佐は、
「もはやなすすべ がない。むしろ日本艦隊の後尾を突破して北方へ遁走しよう」
と、判断した。ウラジオストックへの直航針路をはじめて捨てたのである。
彼はこのため、にわかに左八点の正面変換をおこなって針路を北方に定めた。
このため敵味方のカタチが変わった。上村艦隊は、ボロジノの艦隊・・ にとって右舷の沖に見えるようになった。ボロジノたちは、右舷の砲を激しく連射しつつ北へ走りはじめた。佐藤の判断のとおりだった。
佐藤は機敏だった。それよりも早く 「左十六点の正面変換」 を行い、北走する敵を追った。小型の犬がひょう の群れを追っているようだった。しかし豹の群れは傷ついていた。列は乱れていたし、速力はまちまちだった。
約四分ののち上村艦隊は追いつき、射撃命令が発せられた。左舷戦闘であった。
「ちょっと、遠いなァ」
と、上村は艦橋で言った。距離六千メートルである。しかし上村艦隊は巡洋艦であるために足が早く、しだいに接近して 「遠いなァ」 と言ったときから、六分後には三千メートルになった。射撃にはうってつけの距離であった。
── 敵が、騰煙とうえん のため見えなくなった。
と、当時出雲の砲員たちが困ったと言う。ボロジノたちが げる煙と炎のすさまじさは、彼らの行動をくら ますほどであった。上村の砲員たちは、わずかに敵のマストにひるがえる旗をみとめては射つのみで、艦型などはとて分からなかった。雲が厚く、海の色が白っぽかった。乳色の濛気が濃くなっていた。
(こいつは敵をいつ するかもしれない)
と、佐藤は不安になってきた。
事実、この間、三十分ばかりは日本側はバルチック艦隊の主力を沖合に見失った。
ところが、日本側にとって幸運なことに、戦場を遠く去っていた東郷直率の第一戦隊が、午後三時五十八分、北走しつつある敵艦隊と出くわしたのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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