〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/31 (月) 

死 闘 (十二)

東郷がその無用・・ の艦隊ダンスに熱中している時は、彼の三笠以下の戦艦戦隊 (第一戦隊) は射撃も中止していた。第一、射撃をしようにもすでに敵から遠く離れてしまっており、射程は遠距離射撃に近く、容易に命中するものではなかった。
この間、ロシアの戦艦戦隊と四つに組んで戦っていたのは、装甲巡洋艦という、戦艦に対してはやや非力とされている艦種で編成された上村の第二戦隊であった。それも浅間が洋上で舵機の修理中だったため、出雲以下わずか五隻である。このことは、上村と佐藤の冒険の成功というよりも、連合艦隊という場からいえば無言でも機能するチームワークが存在していたと言うべきかもしれなかった。あるいは、上村や佐藤などが海戦に勝つためのこつ・・ をよく心得ていたと言えるかも知れない。ネルソンが、 「もし旗艦の信号が見えなかった場合、後続する各艦は迷わずに敵へ突進せよ」 と、たえずその艦長たちに言いきかせていたといわれるが、その勝者のための教訓の実例が、みごとなほど上村艦隊の行動にあらわれている。
ノビコフ・ブリボイが、沈みつつある戦艦オスラービアの状況について書いている。
「上甲板には敵弾の落下がつづいていた。本艦には、すくなくとも六隻の日本巡洋艦から砲弾が送られていた」
とあるのは、上村艦隊がこの運動をした時期のことである。上村艦隊はオスラービアのとどめを刺そうとしていた。
ブリボイの書くところによれば、オアウラービアのまわりの海面は落下弾で沸きたち、上甲板も最上甲板も、うなりをあげる焔と砲弾の炸裂音と無数に飛び散る鉄片のために人々は次々に戦闘能力を失ってゆき、やがて大砲のほとんどが役立たずになった。たとえばある砲の分隊長をつとめていたニェデルミーレフという大尉などは、
── もはたこれ以上の戦闘はできない。
として、海軍では珍しいことであったが砲員を解散し、自分はピストルを頭にあて、自殺してしまった。猛炎はいかに消化隊が走りまわっても消えそうになく、やがて艦首は水に突っ込み、次いで午後三時七分から十分ごろにかけて左舷がかたむき、やがて海面に大きな渦をつくって沈没してしまった。
出雲の艦橋にいる佐藤は、オスラービアの沈没とほぼ同時刻に、別な直感をもった。
(敵は、北方へ逃げるつもりではないか)
と、その動きを見て判断し、さらに敵の頭をおさえるために陣形を転じた。
「よろしい」
と、上村はその案に同意した。艦隊はただちに左十六点の正面変換を行った。というのは、各艦が逐次左へ百八十度転ずるということであり、これによって艦隊の左舷の砲火をぜんぶ敵にそそぐことが出来た。艦隊は西北西に新針路をとった。
このとき、敵の旗艦スワロフは猛火と舵機の故障で孤立状態に陥っていたが、上村のメッセンジャーをつとめている通報艦千早 (一二三八トン) という小っぽけなふねがにわかに走り出てきて、みるみるスワロフに接近し、魚雷二本を放った。一種、滑稽な光景でもあった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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