上村の第二戦隊のこの冒険は成功した。 敵の嚮導艦
のスワロフもオスラービアも燃えあがって小さな上村艦隊の接近に十分対抗できる状態ではなかった。スワロフにいたっては北へ回頭し、さらに大角度で、小さな円をえがきつつぐるぐるまわりはじめたのである。 それを見て二番艦アレクサンドル三世
(艦長ボフウォストフ大佐) が機敏にもみずから嚮導艦になるために先頭に出て来た。 その出ばな・・
を、上村艦隊はくじいた。上村は例の、 「面舵」 という、敵前へ殺到する命令を下したために敵との距離がみるみるちぢまり、ついには二千五、六百メートルという近距離になってしまった。この間、猛烈な射撃をロシア側に加えた。 あらたに嚮導艦になったアレクサンドル三世はたちまち燃えあがって、列外へ出た。 ついで三番艦ボロジノが嚮導艦として出て来たが、陣形は混乱に混乱を重ねた。この
「ボロジノ型」 という名前で世界に新鋭を誇った戦艦もこの混乱のもとでは、たかが装甲巡洋艦の艦隊の猛射に対抗することが困難になっていた。 この間かん
の上村艦隊の独断専行の行動については、ロシア側の海戦参加者の手記で驚嘆しているのがあったが、筆者はそれがどの資料だったかをおま探し出せない。 フランク・ツィースというドイツ人が
「対馬」 という書名でこの海戦のことを書いたが、 「対馬で戦った日本人はすべて小東郷であったといっても言いすぎではない」 と言っているように、上村艦隊のこの行動は第一戦隊との組み合わせにおいて、最初から台本でしめしあわせた集団舞踊をやっている観があった。なぜならば、
「三笠」 以下の第一戦隊は敵行動を誤認したため午後二時五十八分 「左八点の一斉回頭」 をやってしまったことから、この時期には戦場から、遠くへ去ってしまっているのである。ついでながらひごたび去ってしまった第一戦隊がふたたび敵に接近するのは艦隊運動場の非常な困難をともなった。敵のしばへ寄るために、三笠は戦隊に対し、午後三時五分、もう一度左へ一斉回頭をおこなったのである。もっともこれだけでは、殿艦の日進が先頭になってしまうため、さらにもう二度その運動を繰りかえし、三笠を先頭とする順番号の単従陣にもどった。非常な手間かずがかかった。これをくり返して言うと、東郷が午後二時五十八分に、 「左八点の一斉回頭」 をやるという失敗をおかしたために、これをあと三度やらねばもとに復せず、敵にも近寄れないというかっこうになった。戦いはたけなわで、いわば敵を逃がすか殲滅せんめつ
するかの正念場しょうねんば であるはずだのに、東郷はそののんびりした艦隊ダンスに熱中していなければならなかった。 |