佐藤は上村に体を寄せ、 「長官、こうなれば仕方がありません。面舵
(右まわし) をとって、敵の頭をおさえましょう」 と、言った。 艦隊を右折せしめるというのは、各艦各個に左一斉回頭をしている第一戦隊との間隔をそれだけ遠くすることになり、第一、第二戦隊がだんごになることだけはまぬがれるが、しかしこの装甲巡洋艦隊は東郷の戦艦艦隊より前面に出ることになり、海戦は戦艦が主役をなすという常識をやぶるカタチになる。 右折すれば敵がどんどん近づくというカタチになるから、危険この上なかった。 こちらは、装甲巡洋艦の戦隊にすぎない。 敵は戦艦の戦隊が前面に出て押し出して来ている。巡洋艦がその薄い装甲と弱い攻撃力をもって戦艦に立ち向かうということは、陸戦で言えば厚い胸牆きょうしょう
にかこまれた要塞に対し、攻撃側が、裸の人員で軽砲をひっぱって近づいて行くようなものであった。 無謀というほかなかった。 上村艦隊がせり・・
出してこの無謀の陣形をとったのは、上村と佐藤の決断と勇敢さということもあったが、もとはといえば三笠の首脳部の錯覚による。戦後、上村も佐藤もついにはこの 「錯覚」
について揚言しなかったのは、東郷が世界戦史に類のない完全勝利を得たため、東郷は無謬むびゅう
の名将になったからである。事実、東郷は無謬にちかかったが、それをさらに完全な無謬的存在にすることは、上村や佐藤などの礼節であったらしい。 佐藤は後中将になってから
「大日本海戦史談」 という海戦の歴史を書き、この局面について触れている。この書物にも、東郷の 「誤認」 ということには触れなかった。ただ、第二戦隊が第一戦隊のとおりに
「左八点の一斉回頭」 をやっておれば、 「敵艦隊をして弾着距離外に脱する機会を与えることになったであろう」 と、遠慮気味に書いている。極端に言えばロシア側の大部分は戦場を脱し、ウラジオストックに向かって遁げきることが出来たかも知れない、ということであった。 ついでながら、昭和十年代に、当時新潮社の社員だった八幡良一氏が、隠棲中の佐藤鉄太郎に会った時、たまたまこの
「誤認」 の話が出た。八幡氏がおどろいて、そのことを何かに書いてもよろしゅうございますか、と聞くと、佐藤ははげしく手を振って、 「それはいけない、どうしても書きたければ僕が死んでからにしてくれ」 と、言ったという。このくだりは、筆者が八幡氏から聴いた。 ついでながら佐藤鉄太郎は昭和十七年三月四日に病没した。もし、この五月二十七日午後二時五十分すぎの段階で上村と佐藤が出雲の艦橋にいなければ、この海戦はもっとちがった結果になっていたに違いない。 |