スワロフの回頭が舵機の故障によるものと知った佐藤は、肉薄追撃の絶好の好機とみた。当然、東郷はそれをするだろうと思った。ところが、東郷は、 「左八点に一斉回頭」 という、各艦一斉に左方九十度に針路を変えよと命じたのである。 東郷は信号旗を掲げて命じた。三笠が信号をあげると、後続する各艦が順次あげてゆき、後方へ後方へと伝達してゆく。第一戦隊は殿艦の日進で終わる。日進の信号を、それにつづく第二戦隊の旗艦出雲が掲げている。 出雲の航海参謀は、山本英輔大尉だった。山本は日進の信号どおりに
「左八点の一斉回頭」 という信号をマストに掲げていた。 が、佐藤鉄太郎は気づかなかった。 「旗艦」 が掲げている信号旗は、信号旗をおろしたときにその命令どおりの行動が各艦において開始される。山本は、 「佐藤参謀、信号旗をおろしていいですか」 と、声をかけた。 この時佐藤はふりむき、信号があがっていることにはじめて気づいた。同時に東郷が命じている第一戦隊に対する信号内容が意外なものであることを知った。しかも前方の第一戦隊はその信号どおりに各艦とも急に艦首を左へまげつつあったのである。 「いかん、おろすな」 と、佐藤は狼狽した。 ということは第二戦隊だけは命令どおりの行動を保留するということになる。保留では、 「かえって第一戦隊を誤解させることになりはしませんか」 と、次席参謀の下村延太郎少佐が言った。佐藤は混乱した。しかしすぐ冷静になり、 「運動旗を一旒
あげておけ」 と、命じた。運動旗を掲げると言うのは、 ── おれについて来い。 ということになる。 が、佐藤は数秒、それ以上の工夫が思いつかなかった。事実、思いつける状態でもなかった。その間かん
も、第二戦隊は従前どおりの針路をまっすぐに進んでいる。その前方で、第一戦隊が、各艦ごとくるくると左へ九十度回頭をしている。第二戦隊はその中へ突っ込んでしまうことになる。 事実、わずかながらそのようになった。 軍艦と軍艦とがだんご・・・
になったように重なりあった。ということは、第一戦隊の射撃を第二戦隊が邪魔することになり、敵から見れば日本の軍艦が重なっているために照準が容易になる。戦闘中の艦隊運動でもっとも警戒すべき悪陣形が出来上がったのである。 佐藤は、後悔した。 が、いまさらどうすることも出来ず、みずからの戦術行動で、みずからを縛り上げてしまう結果になった。このとき佐藤が思い出したのが、伊庭想太郎から伝授された心形刀流の極意だった。つまり窮地に陥ったと見ればなんでもいい、瞬息に、そして積極的行動に出よということであった。
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