佐藤は、旗艦スワロフを注視しつづけていた。スワロフが北へ頭を振ったとき、三笠の東郷たちとはちがい、 (舵
の故障だ) と、思った。おもわず靴のカカトでもって艦橋の床ゆか
を蹴ったのは、佐藤にすればよほどうれしかったに違いない。スワロフが意図的に回頭しつつあるのではないという証拠に、その半ば折れたマストに信号旗らしいものが揚がっていないのである。 「舵の故障ですな」 と、佐藤は出羽なまりの軋きし
むような発音で、横の上村に言った。上村も眼鏡をもって注視しつづけていたのだが、この時即座に、 「まちがい無な
か」 と、ゆっくり、しかし大声で言った。 上村は絵に描いたような猛将だったが、開戦当時からつき・・
にめぐまれていなかった。 第二艦隊と称せられる彼の装甲巡洋艦の艦隊は、ある時期、敵の海上交通破壊戦を封ずるための任務を負わされていたが、ウラジオストックを根拠地とするリューリックなどの巡洋艦はつねに上村の目の届かぬ所で出没し、ついには陸軍の輸送船常陸丸ひたちまる
を撃沈したりした。上村の評判は悪く、議会の壇上で海上の上村の働きの無さを論難して 「無能」 ときめつける議員もいた。 ついに去年の八月十四日早暁、蔚山沖うるさんおき
を南下してくるリューリック以下三隻のウラジオ艦隊の艦影を発見し、上村はすぐさま出雲以下四隻で追跡した。追跡一時間数十分ののち、第一弾を発射した。敵も逃げつつ応射し、猛烈な砲戦のすえリューリックが撃沈された。他の二隻であるグロムボイ、ロシアはふたたび活動できないまでに破壊されたが、かろうじてウラジオストックへたどりつき、港内に遁入した。 「あの二隻を遁に
がすべきではなかった」 と、秋山真之がのちのちまで、上村の追跡の不徹底さは戦略的立場からみて重大なマイナスであったとして批判しつづけたが、このあたりはむずかしい課題であった。 上村は、理由はいろいろあったにせよ、グロムボイ、ロシアを追跡することを途中で断念し、リューリックの沈没現場に戻って来て海面にただようその乗員を救助したのである。救いあげたロシア兵は六百二十七名という多数にのぼった。各艦とも魚雷発射管のある室まで捕虜がいっぱいになった。 「戦略目的を犠牲にしてまで敵の漂流兵を救うのは、宋襄そうじょう
の仁じん である」 とまで真之は言ったが、上村にとっては戦争は人間表現の場であり、敗敵へのいたわりがなければ軍人ではないという頑固な哲学があった。彼は日清戦争の時も敵の捕虜たちを艦に収容するとき、敵の面目を考えて、堵列する水兵たちに廻レ右をさせて背をむけさせた。 その上村は、あの蔚山沖での海戦中、午前六時三十分、リューリックが舵機に故障を生じた瞬間をありありと見た。その時の光景が、いまスワロフの様子とそっくりだったのである。 |