ところで、東郷の麾下
の中でただ二人だけが、 (スワロフは回頭したのではない。舵機の機能を失ってよろけはじめたにすぎない) と認識した者がいた。ただ二人きりだけでなかったかも知れないが、それを認識し、同時に異常な単独行動を決断した者が二人いる。 第二艦隊の旗艦出雲の艦橋にいた参謀佐藤鉄太郎中佐がしに一人であった。佐藤の横に、司令長官の上村彦之丞がいた。この両人である。 佐藤は、 ──
秋山か佐藤か。 といわれ、海軍内部で早くから戦術の天才という評価を受けていた。もし真之がいなければ、連合艦隊の先任参謀の位置にこの佐藤がついたに違いなかった。 彼は慶応二
(一八六六) 年、出羽庄内藩士平向家に生まれ、佐藤家を嗣つ
いだ。真之における伊予松山藩もそうであったが、ともに戊辰戦争の時には佐幕派に属し、苦汁くじゅう
をなめた。この当時、海軍は 「薩の海軍」 と言われていたように東郷も上村も戊辰の官軍の薩摩の出身であった。真之と佐藤が、その旧官軍出身者の下に仕えているというのは取り合わせとして多少数奇でなくもなかった。 佐藤は明治十三年、満十四歳の時鶴岡から東京まで徒歩旅行をつづけて築地の海軍兵学校のジュニア・コースに入った。 彼は、剣道家ともいえたかも知れない。尉官時代、かつて幕臣の流儀だった心形刀流しんぎょうとうりゅうを、その宗家の伊庭いば
想太郎から学んだ。伊庭は四谷よつや
で文友館という道場を開いていたのである。 伊庭は、はじめ佐藤の体つきを見て、どうも君の様子ではいくら稽古してもたかが知れている、と稽古をさせなかった。 「稽古をしても、頭の叩かれ損のようなものだから、ひとり稽古で極意に達する方法を教えてあげよう」 と言って、奇妙な方法を教えた。 糸を横にひっぱっておくのである。それを前にして真剣を抜き、振りかぶって力まかせに振り下ろす。そのとき、糸を切らずすれすれで白刃をとめる。その練習をせよ、と言った。佐藤は、そのとおりにした。 佐藤が少佐になったころ、伊庭は、 「君は参謀官だそうだから、心形流の極意を教えておこう」 と言って、剣の上での実例をいくつか挙げ、
「剣に限らず物事には万策尽きて窮地に追い込まれることがある、その時は瞬息に積極的行動に出よ、無茶でもなんでもいい、捨て身の行動に出るのである、これがわが流儀の極意である」
と言った。 佐藤はこの言葉をよく覚えていた。やがて彼の第二艦隊は第一艦隊の敵情誤認行動によって窮地に陥るのだが、このとき出雲の艦橋で佐藤の頭脳をかすめたのは伊庭が伝えたその極意であった。佐藤はとっさに無法に近い積極行動をおこすことによって連合艦隊そのものを、あやうく敵艦隊を取り逃がすところから救い出したのである。奇妙なことに佐藤のこの時の行動はその後ながく海軍内部では秘密になっていた。
|