しかしその東郷も失敗する時が来た。 東郷だけではなった。加藤友三郎、秋山真之をふくめた三笠の艦上の三人がともどもに敵情に対し重大な誤認をした。 午後二時五十分すぎの段階である。 猛火を噴き上げている旗艦スワロフが、突如、北へ回頭したのである。 ──
針路を転じた。 と、三笠の東郷以下はこの敵の異変をロジェストウェンスキーの意志から出たものとみた。この時期の双方の艦隊のかたちは二ノ字型になって砲戦している。二ノ字型のままいずれも東に向かって並航していたのだが、スワロフの動きが変わった。北方へ回頭した。ということは、並航する東郷艦隊をやりすごすべく、北へ針路を向け、艦隊を率いて逃げ去ろうという意志かと三笠の艦橋は思った。 ところがスワロフの実情は単に舵機g破壊されたためにおこった回頭で、ロジェストウェンスキーの意志によるものではなかった。 この司令長官は防御甲板の下の居住甲板にある戦時治療室にいて手当てを受けたあと、
「下部発令所」 と呼ばれている部屋へ身を運んだ。もはや指令塔は用をなさなくなっていた。 「下部指令所」 というのはこういう場合のために艦の水線部の下に設けられている予備の指令所であった。 重傷の艦長も、航海長のフィリポゥスキー大佐も提督とともにその部屋に入った。この航海長も負傷していたが、しかし軽傷であった。 「敵情にとくに変化がないかぎり、しばらくこの針路を保持せよ」 と、ロジェストウェンスキーは、航海長に命じた。 ということからも、北への回頭というのはロジェストウェンスキーの意志ではない。 このときすでに舵機が破壊されていることは提督は知っていた。 しかし参謀のクリジジアネフスキー大尉が、
「なんとか応急の修理が出来るかも知れません」 と言って現場へ行っていた。提督はそのことに期待していた。が、同大尉が戻って来て、かぶりを振った。 「だめです」 と、言った。たとえ舵機の修繕が出来ても、舵機操縦の機関部へ命令を伝うべき通信施設がことごとく破壊されていることが分かったのである。伝声管も、艦内電話機もすべて用をなさなくなっていた。 この前後に、旗艦スワロフがまるでなにごとかの意志を示すかのようにゆっくり回頭しはじめたのである。 しかし、その回頭がなんとなくよろめいていかにも不自然であるということを察したのはスワロフに後続している戦艦アレクサンドル三世の艦長ブフウォストフ大佐であった。彼は旗艦のあやしげな挙動を見て、 「舵機に故障が起こった。従う必要はない」 と、正確に判断した。さらに彼はみずから先頭に立とうと決心した。 |