〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/25 (火) 

死 闘 (二)

戦艦オスラービアは、やがて大きく腹をさらけ出して仲間のどの艦よりも先に海底に沈んで行く。装甲鈑で充分に防御された戦艦が砲戦で沈むなどはありうべからざる珍事であった。この当時の戦艦は浮沈の実質を持っていたし、事実砲弾に対しては不沈の力を持つと世界の海軍軍人から信じられていたのである。
この戦艦は、母国のリバウ港を出港した時から、不吉の影を帯びていた。出港した翌朝、この戦艦が従者のように従えていた駆逐艦ブイストルイ (三五〇トン) が急に接近し、衝突してしまったのである。破損したのは駆逐艦のほうであったとはいえ、門出に際しての事件であり、縁起をかつぐロシア人にとって愉快な事故ではなかった。
その後、長い航海中、艦隊で病死者が何人か出たが、このオスラービアがもっとも多かった。造船技師ポリトゥスキーの手記にも、
「オスラービアにはしばしば死亡者あり」
と、書かれている。
この艦は、第二戦艦戦隊の旗艦で、フェリゲルザム少将が座乗し、同少将は三隻の戦艦と一隻の装甲巡洋艦の司令官をつとめていた。が、少将は出港早々から健康状態が悪く、航海中はほとんど司令官私室で病臥したきりであった。ヴァン・フォン湾を出てから病状が悪化し、海戦の四日前、艦隊が台湾東北沖に達したときに死没した。遺体は白い樫製かしせい の棺におさめられた。が、葬儀は行われなかった。
ロジェストウェンスキーが艦隊の士気にかかわることをおそれ、その死を秘し、依然としてオスラービアの檣頭高く司令官旗をひるがえさせていた。従って新司令官も任命しなかった。信じられないようなことだが、第二戦艦戦隊は司令官を欠いたまま、そのくせ 「旗艦」 ろしてスワロフとともに先頭に立って進みつつ戦場に入って来たのである。
この戦艦は、他の戦艦が二本煙突であるのに対し、めずらしく三本煙突であった。このため日本側は目標として識別しやすかった。
東郷は午後二時十分、はじめて射撃を命じたが、わずか十分後にオスラービアは惨澹たる景況を示した。
まず大檣が吹っ飛んで半分だけになり、後部煙突は消えて二本になった。舷側には無数の穴があき、もっとも大きなものは直径二十フィートに達した。sらに前部砲塔が砲塔ごと海中に飛ばされ、艦首も砕かれた。砕かれた箇所にさらに命中し、ついに口が大きくあき、そこから海水が奔入した。艦は前へのめりこむようなかたちになり、鋲鎖孔びょうさこう のあたりまで沈んだ。やがて艦体が左へ傾いた。さらに傾き、十五度にまでなったとき、猛煙につつまれたまま列外へよろめき出た。それでもなお艦尾に残っている二、三の小砲が、閃々として火花をきらめかせて射ちつづけていた。
午後二時五十分ごろにはまったく戦闘力を失った。下甲板は浸水し、上中甲板は猛火につつまれ、兵員は逃げまどった。午後三時十分、にわかに艦首を海中に突っ込んだと思うと艦尾を高くあげ、海面に黒煙を残したまま吸い込まれた。艦長ベール大佐はタバコを口にくわえたまま艦橋にいた。そのまま艦と運命を共にした。付近にいた駆逐艦ブイヌイほか一隻が沈没箇所を駆け回り、海面に漂っている兵を救いあげ、約四百人を救助した。かつての乗員は八百五十人であった。この救助作業中、日本艦隊はこれらの駆逐艦に対し、戦士としての優しさをもっていた。どの艦もこれらの駆逐艦に対し一弾も送らなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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