日本海海戦は二日間つづく。しかし秋山真之は終生、 「最初の三十分間だった。それで大局が決まった」 と語った。さらにこうも語っている。 「ペリー来航以来五十余年、国費を海軍建設に投じ、営々として兵を養ってきたのはこの三十分間のためにあった」 「三笠」
は、相変らず長蛇の陣を率い、その先頭を進んでいた。 海面は敵砲弾の落下のために沸きだち、その林立する水柱のなかに三笠の艦橋が宙に浮かんでいるような感があった。東郷は依然として彼の場所を動かなかった。飛沫
がしばしば彼の双眼鏡をぬらした。そのつど東郷は小さな布を取り出してぬぐった。それだけが東郷の身動きの唯一の変化であった。 「わが全線の砲火をもって敵の先頭に集中させる」 という作戦主題を、東郷はこの苛烈な、ときに心理的動揺でもってその主題を変えたくなるかもしれないであろう戦況の中にあっても偏執的なほどに変えなかった。彼がこの戦闘中前後五時間にわたって同じ場所で同じ姿勢でいたのは、その最良の主題への執着を象徴していたとも言えるかも知れなかった。 これに対しロシア側の陣形にはつよい主題性がなかった。信じられぬほどのことであったが、ロシアが国運を賭けたこの主力決戦の初段階において砲戦に参加し得たのは前の方の五、六隻にすぎなかったのである。 ──
いかほど頑強な敵でも撃滅されるのは当然である。 と、真之はこの戦場を語るとき、つねに感情を交えず、数式を説明するような態度で語った。東郷のやり方は数式どおりであった。第一、第二戦隊の片舷百二十七門の主、副砲がつねに稼動できるように艦隊をうながしつづけた。 ロシア側の匿名幕僚の手記にも、 「凶悪なる砲火はスワロフおよびオスラービア二艦に集中せられた」 と、書かれている。 日本側の命中率は驚異的な高さを示した。スワロフに乗っているセミョーノフも、 「黄海海戦のときは、自分はツェザレウィッチに命中する大口径砲弾の個数を数えるゆとりがあった。今度はそれどころではなかった。日本側の命中率のよさは自分がかつて見聞もせず想像も出来なかったほどのものであった。砲弾が一発々々命中するのではなかった、雨のように落下し、命中し、炸裂した」 と、表現した。 旗艦スワロフの惨況もすさまじかったが、とくに第二旗艦ともいうべきオスラービアはひどかった。この艦は日本側の最初の集中射撃で火災と黒煙に包まれた。第二回目の集中射撃が海上にとどろいたとき、この艦は爆煙をあげ、火災を噴き、黒煙が海面をおおい、艦形が見えなくなった。 この艦はスワロフ型の四隻の新鋭戦艦よりも速力が早いかわり、装甲が薄かったが、しかしそれでもこの時期、 「いかなる砲弾でも
Harveyed armmour をつらぬけない」 といわれていたハーヴェイ式装甲を艦体に巻いた点で、スワロフ型と同じであった。ついでながらハーヴェイは米国人で、ニッケル鋼を用いて装甲の強度を飛躍的に高めた。日本の戦艦では三笠のほか朝日と敷島がこれを用いていたが、富士はそうではなかった。富士はハーヴェイ鋼からいえば旧式の合成甲鈑を用いており、このためオスラービアや敷島などが装甲九インチの厚さですんだものが、十八インチもの厚さを必要とし、それでもなお九インチのハーヴェイ鋼と同等もしくはそれ以下の防御力しか持っていなかった。 オスラービアのハーヴェイ鋼はよく日本の砲弾に耐えた。しかし焼夷性の高い下瀬火薬が艦体そのものを火にしてしまったのである。 |