海軍砲術史の権威である黛
治夫氏と志摩亥吉郎氏の談話や論文に負うところが多い。 黛治夫氏はかつての海軍大佐だったが、むろん日露戦争のころの人ではない。が、砲術の研究者としてその面から東郷の指揮を分析し、すぐれた見方を持っておられる。 東郷をして成功に導いた彼の敵前回頭という戦術は、英国の観戦武官のペケナムにも、ロジェストウェンスキーとその幕僚たちにもこれを狂気の沙汰としか映らなかったのだが、のちにこの大勇断・・・
が彼の名前を不朽にした。 が、黛氏は、 「あれは方術上から見れば大勇断ではない」 とされる。 が、すべての説はこれを大勇断・・・
としている。敵の射程内において一艦ずつ一定の時間滝間隔をおいて規則正しく左折して行く。左折する時、ロシアの砲員から見れば艦が停止状態同然になる。それを順次一艦じつ撃ち砕いてゆくことも技倆次第で可能であり、だから東郷は放胆きわまりないことをしたという。日本のかつての海軍大学校もこれを勇断として賛美するのがいわば戦史講義の型になっていたし、この海戦当時、秋山真之とならぶ戦術家とされた佐藤鉄太郎
(第二艦隊参謀) ものちのちまで大冒険説をとった。しかし黛治夫氏は、ごく平凡な事実に気づいた。 当時の海軍は、日本であれロシアであれ、あるいは他の国であれ、大回頭中の目標に対してとっさに有効弾を送る技術を持っていなかったということである。射撃諸元の調定やが照準やらする時間が、どうしても数分はかかる。 以下、黛氏の文章の一部を借りる。 「戦史を調べると東郷長官が
『取舵』 を命じてから百四十五度回頭するまでに約二分間を要する。その間、スワロフ以下敵の新式戦艦五隻から、大口径砲はおろか中小口径砲の一発さえ射っていない。二番艦敷島が新針路に入ったころ、やっと射ち出したのである。
(中略) 三笠が取舵を取ってから三分間は全く射撃されていない。そして始めて十五サンチ砲の小さな弾丸が三笠に命中したのは回頭開始から実に八分後の午後二時十三分。三十サンチ
(十二インチ) 弾が命中したのはそれよりさらに一分後である。 (中略) 目標が回頭中、一点に集弾させることはジャイロコンパスのなかった昔の軍艦では出来ない芸当である」 として、黛氏は東郷のえらさは大冒険・・・
をやったことではなく、それを知りきって 「不安なく回頭を命じた大英知」 にあるとしている。 戦術上の評価は別として、純方術論的にいえば、その権威である黛氏の説のとおりであろう。 この黛氏の文章をここに拝借したのは東郷の敵前回頭についての評価をしたいからではなく、そのことはすでにこの稿で触れてしまっている。ただ当時、軍艦が軍艦に対して砲弾を命中させることがいかに困難なものであったかということを黛氏の文章でもってそのふんいきを知ろうとした。 東郷は彼の命令である
「旗秘第四九七号」 において、百発百中を希望する、などという誇大表現をとっておらず、 「もし」 と仮定し、 「訓練によって百発七十中」 の域に上達せしめることが出来ればわが艦隊の現勢力にあらたに数隻の戦艦。装甲巡洋艦などを増加したと同じ結果になるとし、
「此事ハ決シテ期シ難キニアラザルナリ」 としている。 |