〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/25 (火) 

砲 火 指 揮 (五)

この時代、戦艦の装甲板の防禦能力はじつに高く、これを攻撃するための最大の砲弾である十二インチ砲弾さえ、戦艦を沈めることが出来ないというのが世界の海軍の定説であった。
「戦艦は沈まない。とくにスワロフ以下の五隻の新鋭戦艦の装甲はいかなる砲弾にも耐える」
と、ロジェストウェンスキーもその幕僚たちも信じていた。当然の常識であり、たとえば旗艦スワロフで観戦と記録の義務を持っているセミョーノフ中佐が、艦内のあちこちを飛びまわりつつも、この戦艦スワロフが沈むなどということは一瞬も思っていなかったようであった。
秋山真之も、
── 砲弾のみではとても敵の新鋭戦艦を沈めることが出来ない。
として、昼間、砲弾で痛めつけ、夜間、駆逐艦と水雷艇の群れを繰り出して満身創痍そうい の敵艦に肉薄させ、魚雷をもって仕止めるという計画を立てていた。このため駆逐艦たちも魚雷をかかえ、激浪とたたかいつつこの戦場について来ていたが、昼間の戦闘は大艦がやるため海上でいわば時間待ちをしていた。
要するに十二インチ砲弾でも戦艦を沈めることが出来ないというのが定説でありながら、この海戦で、結果においてはロシア側の戦艦が日本の砲弾のためにどんどん沈んだのである。
その理由についてはのち種々の意見が出た。
「日本の下瀬火薬と伊集院信管による」
という意見は、ロシア側に多かった。なるほどこの日本が開発した奇妙な砲弾は、世界一般の海軍砲弾の概念で律するよりも、後世の焼夷弾しょういだん により近いもので、現象としては鉄をも燃え上がらせるというものであった。しかし戦艦はたとえ燃えても沈まないのである。さらに下瀬火薬と伊集院信管を特徴とする日本砲弾は徹甲弾においてはむしろ短所を露呈した。この砲弾は敵艦の装甲に命中しても、砲弾自身の圧縮発熱のために敵艦のいわば装甲表面で自爆してしまい、徹甲能力を欠き、貫通はほとんどしなかった。貫通しなければ戦艦を沈めることは出来ない。
軍艦の装甲構成というのは、艦の水線付近に厚くほどこされている。水線よりも上は薄い。水線以下は、まったく装甲されていない。その理由は水線以下は海水そのものが、陸上でいえば土塁のごとく防弾力を持っているからである。
ところがこの日、真之が大本営に打った電文にあるように、
「浪高し」
であった。風浪のためロシア軍艦がたえず動揺し、腹 (水線以下の無防禦部分) を見せるためにそこへ日本の砲弾が命中し、海水の防弾力を借りる条件に乏しかった。このためそこから海水が入り、さらに一方、波浪が奔騰するため、水線以上の薄い部分に日本砲弾が命中して大穴をあけた場合も、海水がどっとそこから入った。このため艦はかたむき、ついにひっくりかえって海底に沈むという物理的結果になった。
もしこの日 「浪高し」 でなくても夜間の魚雷攻撃によって似たような結果になったかも知れないが、日本砲弾の威力が驚異的に高まったのは激浪の助によるところが多く、さらに東郷が風上へ風上へと自分の艦隊をもって行ったことは、日本の全砲門の照準をたやすくさせるのに大いに効果的であった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ