この東郷の
「旗秘第四九七号」 において、 「射距離は艦橋において掌握する」 という 「一艦の照尺の統一」 の新思想が明示されている。 この新思想は、偶然、英国でもほぼ同時期に開発され、Broadsides
fringu と名づけられたが、しかし英はその効力を試す機会 (海戦) がなかったために、東郷艦隊が開発の栄光をになった。 東郷の統率のおもしろさは、その原則を示しただけで、その実際上の運営法については各艦の艦長と砲術長に任せたことである。 東郷の原則は、 「砲火指揮はできるだけ艦橋で掌握し、射距離は艦橋より号令し、砲台にて毛頭これを修正せざるを可とす」 というもので、各砲台は毛頭修正しない。ロシア側が、各砲台どとに射距離を決めて一つの艦の中でもばらばらに射ったということとまったく違っている。 「艦橋で掌握」 というが、三笠の砲術長の安保清種はそのようにしたが、戦艦富士の山岡豊一砲術長は戦闘中、前檣のトップにのぼり、そこで射距離を決めてよく透る声でメガホンで直接各砲塔に号令していた。かつて三笠の砲術長だった加藤寛治が
「最良の観測位置は前檣トップである」 としているから、富士のほうがいっそう合理的だったかも知れない。 もっとも富士の山岡はメガホンだけで伝えたのではなく、ラッパの音で数字を決めたり、指示盤を用いたり、ライド通信器によったりして、数種類の伝達法を併用することによって迅速と確実を期した。彼我の砲声のやかましい中で伝達するのはそういう入念さが必要であったかも知れなかった。 東郷の
「旗秘第四九七号」 は原則とはいえ、具体的な説明も入っている。以下、その一部を口語に直すと、 「艦橋よりの射距離命令は迅速を必要とする。それが下甲板砲台に達するのにもし二十秒以上を要するとすればその命令はもはや死令となるかしれない。なぜならば実戦に際し、射距離の変化は十秒間に百メートル以上になる場合がしばしばあるからである」 さて、砲火についてさらにつづける。ただわずかに話柄
を変える。 「日本艦隊は、鍛鋼弾から徹甲弾に詰めかえた」 という意味のノエル・ブッシュの記述だが、このことも東郷があらかじめ定めておいた方法であった。 鍛鋼榴弾というのはただ炸裂して兵員その他を殺傷するだけの砲弾である。徹甲榴弾とは殺傷力は弱いが文字通り艦隊の装甲部をぶち抜いて大穴をあけるための砲弾である。鍛鋼榴弾ではふつう、軍艦は沈まない。 東郷艦隊が最初鍛鋼榴弾を用いたのは、遠距離ではいかに徹甲榴弾を打っても貫徹力がにぶいことを知ったからであった。このため、 「彼我の距離が三千メートルになるまでは鍛鋼榴弾を使う。それ以内に入れば徹甲榴弾に切り替える」 という方法をとった。徹甲弾というのはいかに名称が甲を徹とお
すとはいえ、二千五百メートル以内でなければとても鉄の装甲を貫くことが出来ないという計算を日本側は持っていたのである。ロシア側はそういうことはいっさい考えていなかった。以上のことどもを考えておれば問題は砲員の優劣という次元よりも、東郷とその幕僚と、ロジェストウェンスキーとその幕僚の優劣という次元で考えられるべきことであろう。 |