〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/24 (月) 

砲 火 指 揮 (二)

砲火指揮について、つづける。
鎮海湾での待機中、その初期においては東郷艦隊の射撃能力は決して巧妙とは言い難かった。
当時、三笠で十二インチ砲と三インチ半砲二門を担当していた山本信次郎大尉が、のち少将になってから回顧して語っている言葉が残っている。
「あるとき、鎮海湾の中にあります小さな島を目標にして射撃をしました。ところがなかなかあた らないのであります。そんな馬鹿なはずがない、と思いましたが、どうしても中らなかった」
この原因は ── あとで分かったことだが ── 射撃能力の拙劣にあったのではなく装薬が変質していたためだということが明らかになったのだが、それにしても訓練の初期の間はなかなか中らなかった。その証拠に、この艦隊に従事していた英国の観戦武官ペケナム大佐が、
「鎮海湾でのある時期、私は日本艦隊の射撃の拙劣さにおどろき、こんな艦隊と一緒に戦争に行くなら命を捨てに行くようなものだと思い、東京の海軍省の斉藤まこと 次官あて手紙を書いて退艦させてくれと頼もうとさえ思った」
と、後年、前記山本信次郎がロンドンへ行ったときに述懐したという。
「ところがいざ海戦に参加してみると、日本艦隊の命中率のすごさには驚いた」
別の艦隊を見ているようであったという。
この変化は、東郷が鎮海湾でひたすら砲員の訓練をした効果があがったということに主因があるが、見方によっては東郷とその幕僚および砲術関係者が、
「砲員の能力も大切だが、それ以上に射撃指揮法g大切である」
と、 「砲員の能力に頼っていても飛躍はない」 ということに気づき、指揮法を研究して世界の海軍常識とは別個の、というよりまったく独創的な方法を鎮海湾において開発したことがこの海戦に重大な結果をもたらした。
ここで、別な叙述を差し込むようだが、やはり触れておかなければならない。ロジェストウェンスキー艦隊の砲員の能力についてである。低かったという。それが日露双方の定説のようになっているが、しかし彼らの能力がとくに低かったということについて決定的な証拠を探すことは困難である。艦砲の射撃がいかに困難なものであるかについてはすでに述べた。その困難さという絶対条件の上に立つ以上、東郷の砲員がロジェストウェンスキーの砲員よりすぐれていたとしても (げんに優れていたが) たかが知れた差である。
決定的な差をなしたのは、むしろ東郷とその部下が開発した射撃指揮法にあったであろう。
「旗秘第四九七号」 という東郷命令で、東郷はすでに、
「射撃ノ指揮法ガ射撃術ノ重大要素タルコト最早もはや 疑ヲ容ルルに足ラザルナリ」
として、新しい方法の骨子を各艦艦長および主務将校に示しているのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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