〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/23 (日) 

砲 火 指 揮 (一)

東郷が演じたあざやかな戦術運動について、ノエル・F・ブッシュよいう人が、
「日本艦隊は、敵の装甲を貫徹させるために徹甲弾に切りかえた」
と、書いている。日本艦隊は東郷が演出するダンシング・チームのように整然と行動したことが、この短い文章によく感じが出ている、敵前における逐次回頭もそうであり、各艦の砲術長が艦橋で全砲火の指揮を一手に握るという新方法もそうであり各艦が敵の近距離に踏み込むこと、それまで鍛鋼榴弾りゅうだん をぶっ放していたのが、徹甲榴弾にきりかえたというのもそうである。
その意味では、この海戦は、敵味方の各艦の性能や、各砲員の能力や士気より、日本側の頭脳がロシア側を圧倒したというほうが正確であろう。
ちなみにこの場合の 「頭脳」 とは、当然ながら天性のそれを指していない。考え方というほどの意味である。より正確に言えば、弱者の側に立った日本側が強者に勝つために、弱者の特権である考えぬくことを行い、さらにその考えを思いつきにせず、それをもって全艦隊を機能化した、ということである。
ときに東郷は、
「海戦の要諦ようたい は、砲弾を敵より多く命中させる以外にない」
という平凡な主題を徹底させ、彼の戦略も戦術もこの一点に集中させたのである。いかなる国の海軍においてもこの時期の東郷ほどこれを徹底させた例はなかった。
しばらく砲火について触れておく。
東郷が、鎮海湾での待機中、全艦隊に対し気が狂ったかと思われるほどに射撃訓練をほどこしたことはすでに述べた。
「弾というものは、容易にあたるものではない」
というにがい経験が東郷にあった。日本史上、様式軍艦同士の海戦の最初は、明治元年一月四日の 「阿波沖海戦」 といわれるものであった。幕府軍艦 「開陽」 と薩摩軍艦 「春日」 とが交戦した。開陽にはオランダ帰りの榎本武揚えのもとたけあきが座乗し、春日にはまだ少年のにおいの抜けない薩摩藩士東郷平八郎が、左舷四十ポンド 施条砲せじょうほう を担当していた。双方、二千八百メートルで砲火を開き、千二百メートルで砲火たけなわになった。結局は春日が優速を利用して開陽をふりきったために戦闘は終わるのだが、この交戦中、双方一発の命中弾もなかったのである。
海上の射撃はそれほど困難で、敵味方とも船が動いているだけでなく、風浪のために砲口はたえず動揺しており、源平のころに那須与一が浪の上から平家の扇を射たほどに至難の条件が、阿波沖海戦だけでなく、日露戦争のころでさえ基本的につきまとっていた。
日露戦争における黄海海戦は、東郷艦隊と旅順艦隊の最初の全力対決であったが、射撃能力は日露ほぼ同水準で、双方とも成績はよくなかった。日本側が辛勝し得たのは、 「運命の一弾」 といわれる日本の十二インチ砲弾が敵の旗艦の指令塔付近で爆発し、ウィトゲフト長官以下を吹っ飛ばして敵の指揮が混乱したおかげであり、秋山真之がのちのちつねに語っていたように、 「あのときは勝てるとは思わなかった。天佑としかいいようがない」 と言っていることが正直な実相であった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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