〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 人 間 の 証 明 ──
 

2015/08/10 (月) 

人 間 の 証 明 (三)

八杉恭子は、犯行を自供した。
「ジョニーが突然、私の目の前に現われたとき、私はわが子にめぐり会えた喜びと、これですべてが破壊される絶望を同時におぼえました。ジョニーはニューヨークで偶然私の出版物を見かけて、私の消息を知ったそうです。羽田に到着すると同時に連絡して来たジョニーに、東京ビジネスマンホテルへ来るように指示しました。夫の事務所がそこにあるので、無理なく連絡できると思ったからです。ジョニーの父親のウィルシャーとは、終戦直後、彼が進駐して来た時に知り合いました。私は当時、東京の親戚しんせき に寄宿してある私立の女学院へ籍をおいていました。戦火が激しくなっていったん帰郷したものの、一度都会の味をおぼえた身は、とても小さな田舎町に逼塞ひっそく してはいられません。復学するために、両親の反対を押し切って再度上京したとき、浮浪者にからまれて困っていたのを救ってくれたのがウィルシャーでした。ウィルシャーは黒人というハンディキャップがありましたが、男らしくおもいやりのある、本当にすばらいい人でした。私たちは恋に落ち、そのまま同棲どうせい してしまいました。生家には、就職したとごまかしました。そのうちに、ジョニーが生まれたのです。
霧積へ行ったのはジョニーが二歳になったときでした。同郷の遠縁が霧積にいるということを人伝に聞いたからです。麦わら帽子の詩は、帰途、谷ぞいの道でお種さんがつくってくれたお弁当を開いたとき、その包み紙に印刷されていました。あまりに美しい詩だったので、ウィルシャーとジョニーに意味をわかりやすく訳して教えたのです。あの詩がまだもの心もつかないジョニーにそんなに深く印象されるとは思いませんでした。麦わら帽子はジョニーがせがんだので、松井田の町で買ってやったものです。間もなく、一家が別れるときが来ました。ウィルシャーに帰国命令が下ったのです。私たちはまだ正式に結婚していませんでした。当時、米軍は正式の妻以外の女性を、本国に伴うことを許しませんでした。また私の実家は八尾の旧家で、外国人、それも黒人との国際結婚など絶対に許すはずがありません。ウィルシャーの再三の求めにもかかわらず、私たちが正式に結婚できなかったのは、そのためです。
止むなくウィルシャーは、ジョニーだけを承認して連れて行ったのです。西条八十の詩集は、私がその時ウィルシャーに霧積の記念として贈りました。私は、両親を時間をかけて説得し、同意を得てから、ウィルシャーを追いかけて行くことにしました。
ジョニーを連れて行ったのは、日本では、私に生活力がなくてジョニーを育てるのが難しいのと、私を必ずアメリカへ来させるための保証の意味があったようです。
ウィルシャーが帰国した後、私はいったん帰郷しました。すぐにも両親の同意を得て、二人の後を追おうとしたのですが、なかなか言い出せないでいる間に人を介して、郡との縁談が生じたのです。周囲で話がどんどん進行して、形式的な見合いをしたときは、断れないような状況になっていました。

『人 間 の 証 明』 著:森村 誠一 ヨリ
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