東郷はかねて、 「開戦というものは敵に与えている被害がわからない。味方の被害ばかりわかるからいつも自分の方が負けているような感じを受ける。敵は味方以上に辛
がっているのだ」 と彼の経験から来た教訓を兵員にいたるまで徹底させていたから、この戦闘中、兵員たちのたれもがこの言葉を思い出して自分の気をひきたてていた。真之でさえこの戦闘中、東郷の言葉を思いだしては自分の気持ちを保った。なにしろ東郷は、彼を輔佐する真之が生まれた時にはすでに幕末から戊辰戦争にかけての数次の戦闘を経験した薩摩藩の海軍士官だったのである。 古今東西の将帥で東郷ほどこの修羅場の中でくそ落ち着きに落ち着いた男もなかったであろう。 艦橋にいる砲術長の安保清種少佐は、たれよりもいそがしかった。彼は目標の敵艦から目を離すことなく、当方が射ち出して行く砲弾の弾着の状況を迅速的確にとらえては、伝令をくりだし、全砲火の射撃指導をしていたが、その間、彼が気をつかったのは艦底に勤務している兵員たちのことだった。艦底での配置といえば機関室、弾火薬庫、罐室かましつ
などの勤務がある。彼らは戦闘を見ることが不可能であるため、不安が大きかった。安保清種はこれを察し、彼の義務以外のことであったが、射撃指導のあいまを縫っては、伝令を使い、戦闘の状況を艦内くまなく知らせていた。 たとえば、 「いま三笠の十二インチ砲弾がボロジノにあたったぞ」 と叫んだことがある。 東郷はこのとき安保のうしろにいた。東郷は笑いを含んだ声で、 「砲術長、今いま
ンなァ、中あた っちゃ居お
らんど」 と、薩摩弁で言った。 じつは安保もそのことは分かっている。彼は東郷の方に笑顔をむけて、太い眉をさげた。 「ただいまのは、じつは激励のためにそう言いましたので」 と、言った。 東郷の胸もとにぶらさがっている双眼鏡のことはすでに何度か触れた。彼の双眼鏡だけがツァイス製の高倍率のプリズムで艦隊のどの士官のめがねよりもよく見えた。 「明治三十七年二月、日露開戦のとき、カール・ツァイス製のプリズム双眼鏡がわが国の軍部において、初めて兵器として採用されたのである。それ以前においては、軍部を初め一般用に輸入して使用されたのは、仏国のルメヤ製の双眼鏡であった」 と、片山三平氏がその著書
「観測機の発展史」 で述べている。が、 “初めての採用” とはいえ、実際にはこの双眼鏡は東郷と、もうひとり駆逐艦乗りの塚本克熊かつくま
という若い中尉が持っていただけであった。 ついでながら片山三平氏は明治十八年三月岡崎市の生まれて、明治三十三年に銀座のめがね屋の 「玉屋」 に小僧として入り、その後光学機械販売の草分けとして富士測量機の取締役などを経られたが、今この稿のこの時期
(昭和四十七年) 八十六歳の高齢ながら矍鑠かくしゃく
たる印象で、 「そのころ私は玉屋で寝起きしておりました。東郷さんのお屋敷まであの双眼鏡を届けに行ったのは私でした」 と、語っておられる。 |