〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/20 (木) 

運 命 の 海 (二十)

春日、日進というのは、つらい軍艦であった。
この二隻はわずか七七〇〇トンの装甲巡洋艦であるのに、三笠以下の戦艦の戦隊 (第一戦隊) に編入されていた。昨年、旅順沖で機雷のために沈んだ二隻の戦艦 (初瀬、八島) の身代わりとして編入されたことはすでに述べた。
戦艦は主砲が大きく、装甲が厚い。この攻撃力と防御力を基礎にして戦艦の戦隊の戦術運動が出来上がっているのだが、戦艦から見れば小児のような春日と日進が、大人なみの運動にくっついてゆかなければならないのである。ただその主砲は十インチと八インチながら仰角が大きく、一万五千メートルという長大な射程を持っていた。さらにこの両艦は副砲を片舷に六門も持っていたために戦艦の代用がつとまると判断されたのである。
開戦前この二隻はイタリアのゼノアの造船所でほぼ竣工されようとしていた。注文主はアルゼンチン国であった。日本ではない。
この二隻が竣工されようとしているのを英国海軍が目をつけ、日本にあれを買ってしまわないか、と示唆した。ロシアもこれに気づき、アルゼンチンをめぐって互いに購入競争をし、ついに日本が思いきった買収価格を出したために開戦の直前、日本の手に落ちた。
この二隻を地中海から回航して来たのは、今この海域で駆逐隊司令官をしている鈴木貫太郎たちであった。その回航を地中海の洋上でなし得るかぎりの邪魔をしたのは、今この海域でロシア側の先頭にいる戦艦オスラービアであった。
この春日、日進は、その設計に日本側が参加していない艦であるため、日本海の波浪の荒さが計算に入っていなかった。このため、ロシアの軍艦の多くがそうであるように、吃水きっすい に近い舷側の砲は波をかぶって照準がしにくかった。
とくに春日はひどかった。およいよ砲戦が開始されるというとき、舷側砲の 「砲門扉ほうもんぴ 」 は当然ながら外に向かって開けられていた。そのとびら繋止鏈けいしれん でつなげられて動かぬようにされている。扉のすぐ下は海であった。怒涛が奔騰していた。そのうち十二番六インチ砲の砲門扉は波に連打されつづけてきたために、あれほど頑丈な繋止鏈がひきちぎられてしまった。すぐ修理すべきであった。しかし艦内から手をのばして扉に触れようにも扉が重く、とうてい力が及ばない。そのうち怒涛は砲門をも洗い、近づくことも出来なくなった。このとき二等水兵の池田作五郎という力自慢の兵が自分の体をロープで縛り、砲門から舷外に出た。彼は舷外で扉につかまり、切れた繋止鏈をつなぎとめようとした。ようやく繋ぎとめたときに、大波がこの水兵の全身を打ち、ロープが切れた。水兵は万歳の声を残して後方へ流され去った。
一方、先頭艦の三笠の被弾状況は刻々惨烈さを加えた。
一弾が大檣の上部に命中して、弾片を四方八方に散らした。艦橋にいた真之が振り返って仰ぐと、その瞬間まで全艦隊の象徴として翻っていた大将旗と戦闘旗が消えていた。
ところが、この大檣の檣楼しょうろう 見張の配置にいた信号係の下士官の柏森源次郎が、かねて個人的に用意していた戦闘旗を取り出し、すぐさまそれを檣頭に掲げた。
「おもしろいことをするやつだ」
と、真之は声をあげてひとりごとを言った。
東郷はちらりと振り返っただけでふたたび敵艦の方を見た。この戦闘旗が一度消えて再び揚がった時、後続する各艦の艦長以下がひどく感動した。しかし当の三笠ではほとんごの者が、マストが折れたのも旗が再び揚がったのも気づかず、操艦、射撃、伝令などの戦闘作業に夢中になっていた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next