東郷がやった敵前回頭については、 「海軍戦術一般の原則にはなりにくい。東郷をとりまいいぇいる諸状況の中でのみ成立し得る特異例として考えるべきだろう」 という批評が、各国海軍筋のおおむねの感想であった。規範外のやりかただとみるのである。 たしかに東郷自身がいうように、実戦の経験から出たかん
が彼にこの方法をとらせた。 ロシア側は遠距離射撃が下手な上に風下かざしも
に立っているために波しぶきをかぶり、砲の照準がしにくい。それに対し、日本側の主力はロシア側の主力よりも優速で、しかも艦長たちが艦隊運動に長じているため、どういう状況下でも東郷の号令一つで東郷の思うよな運動を展開することが出来る。東郷は敵の不利と味方の有利を、彼我八千メートルというぎりぎりの瞬間で数学的総合をし、判断をし、とっさに結論を下し、断行した。この時彼の計算には自分の戦死と三笠の沈没の公算も入っていた。 この敵前回頭という捨て身の運動中、三笠以下は艦隊のありたけの速力を出していた。運動に要する時間を出来るだけちじめたかった。これに要した十分という時間は、生と死を分ける魔の時間として無限に永いように思われた。三笠は一個のドラムに化したように、ロシア製の砲弾に叩かれつづけた。 むろん被弾は三笠だけではなかった。後続する敷島、富士、朝日、春日、日進もこの間かん
射たれっぱなしに射たれた。さらにそれら第一戦隊の後方に続いて波を蹴っている上村かみむら
彦之丞直率の第二戦隊にいたっては、装甲が弱いだけに被弾状況はすさまじかった。 第二戦隊の主力は、第二艦隊旗艦出雲以下六隻の装甲巡洋艦である。 排水量は九千トン台で、いずれも戦艦のように装甲板が張られているためこの当時とくに装甲巡洋艦といわれた。装甲はむろん戦艦より薄い。主砲の大きさも戦艦よりは小さい。しかし速力は迅かった。日本の戦艦が十八ノットであるのに対し、二十ノット強は出す事が出来、運動性の高さが評価されていた。 この六隻の装甲巡洋艦を主力決戦の重要な単位として入れたのは、日本の独創である。 山本権兵衛がこれを決定した。各国とも巡洋艦といえば防御力が弱いということで、主力決戦のための要素としてあまり評価されておらず、その名称のごとくこの艦種の役割は遊撃的なものであった。 各国では、十年前、日本が戦艦と同数の装甲巡洋艦を揃えつつあるのを見て奇異に思い、英国海軍筋では、 ──
戦略上、不合理ではないか。 と忠告したことがあるほどであった。しかし実地にこれが主力勢力の副勢力として海上で威力を発揮してから山本のプランが間違ったものではなかったことが実証され、このあと、世界中の海軍が有力な主砲を持つ装甲巡洋艦を重視してついに巡洋戦艦が出現するにいたるのである。 ただし、それには運用がよほど巧妙でなければならなかった。東郷と上村はこれを上手く用いたが、それでもなお、この仲間の浅間はこの十五分のあいだで艦尾ちかくに十二インチの巨砲弾をくらい、その爆発による激動で舵機だき
に故障を生じ、操艦の自由をうしなった。浅間はたちまち艦隊の列から脱落し孤艦になったのである。 |