〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/17 (月) 

運 命 の 海 (十四)

加藤参謀長は振り向くなり、
「砲術長」
と、蒼白な顔で言った。加藤の胃痛はこのときもなおつづいていた。
「君が、ひとつスワロフを測ってくれるか」
と言った。このあたりが、加藤という、いつの場合でも不気味なほどに冷静でいられる男のふしぎさであった。敵旗艦スワロフとの距離は長谷川少尉が測距儀をのぞきながら報告したばかりであり、安保少佐があらためて測りなおすまでもなかった。しかし加藤はこの場になってもその入念な態度をうしなわなかった。
安保少佐は真之の横をすりぬけて後方へ行き、長谷川少尉と交代した。のぞくなり、おどろいた。すでに彼我の距離は八千メートルに近づいていたのである。
「もはや八千メートル」
と叫び、そのあと、
── どちら側で戦さをなさるのですか。
と、どなった。
左舷か、右舷か、どちらであるかを決めてもらわねば射撃指揮の準備が出来ないのである。このとき安保清種ほどの者でも、東郷が考えていた陣形を想像することが出来なかった。
「・・・・私は大声でつぶやいたのです」
と、安保清種はのちに語っている。つぶやいた・・・・・ というのは東郷と加藤をどなりあげるような失礼をしたわけではない、ということであろう。
ところが彼がそうつぶやいた・・・・・ とき、安保砲術長の記憶では、彼の眼前で背を見せている東郷の右手が高くあがり、左へ向かって半円をえがくようにして一転したのである。
瞬間、加藤は東郷に問うた。東郷が点頭した。このとき、世界の海軍戦術の常識を打ち破ったところの異様な陣形が指示された。
「艦長。取舵とりかじ 一杯。・・・・」
と、加藤は、一度聞けばたれでもわすれられないほどに甲高かんだか い声で叫んだ。
艦長伊地知大佐は、一段下の艦橋フライング・ブリッジ にいた。彼の常識にとってこの号令は信じられないことであった。取舵の号令は 「トォォォ」 と長くひっぱって、 「リカァジ」 と結ぶ。左まわしのことである。取舵とは面舵おもかじ (右舵) に」対する言葉で、日本古来の水軍用語である。
「一杯」 というのは極度にまで舵をとって艦首を左の方へ急転せしまることをいう。
伊地知がおどろいたのは、すでに敵の射程内に入っているのに、敵に大きな横腹をみせてゆうゆう左転するという法があるだろうかということであった。
伊地知は思わず反問し、
「えっ、取舵になさるのですか」
と、頭上の艦橋へどなりあげると、加藤は、左様取舵だ、と繰りかえした。
たちまち三笠は大きく揺れ、艦体がきしむほどの勢いをもって艦首を左へ急転しはじめた。艦首左舷に白波があが り、風がしぶきを艦橋まで吹きあげた。有名な敵前回頭がはじまったのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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