〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/14 (金) 

運 命 の 海 (十三)

東郷艦隊はこの時期、かつて三笠の砲術長だった加藤寛治少佐の提案によって 「統一した照尺尺距離を用いる射法」 という世界最初の方法を採用していた。このことは以前触れた。
繰り返すことになるが、その射法とは一艦のすべての砲火を、艦橋にある砲術長の指揮によって行うという方式であった。
それまでは、各砲ごとの指揮官の判断と号令による独立射方どくりつうちかたと称すべき方法がとられており、放火指揮はいわばばらばらであった。
ところが黄海海戦の経験によってこの方法は決戦には不向きであるということが明瞭になった。とくに反航戦という、あっというまに過ぎ去る戦闘時間内で砲戦をする場合、このばらばらの方式で弾を敵艦に当てようとするのは僥倖ぎょうこう を期待するようなものであり、敵に決定的打撃を与えることは不可能に近かった。
加藤寛治は黄海海戦で三笠の砲術長をつとめて苦汁をなめた。彼はこの海戦で軽傷を負ったが、かねて考えていたこの射法を立案し、東郷によって採用され、後任を安保清種少佐にゆずったのである。
その骨子は、
「一艦砲火の指揮は艦橋において掌握し、射距離は艦橋より号令し、各砲台においていっさいこれを修正せざることを原則とす」
というもので、はたして激戦中にその号令伝達がうまくゆくかどうかについては多少の疑問が残されていたが、ともかくも現砲術長の安保清種はこの方法を踏襲し、そのために艦橋を離れずにいたのである。
「私は気が気でなかった」
と、安保清種はのちに語っている。
彼はいかにも砲術科将校らしく大ぶりの風貌ふうぼう をもった男で、平素は一見ものにこだわらない印象を人に与えていた人物だったが、このときばかりは職掌柄いら立たざるを得なかった。
どういう陣形で戦うのかを、東郷も加藤もこのぎりぎりの場になって明示しなかったからである。
つまり敵を右に見て戦闘をやるのか、左に見てやるのか、それとも敵と並んで航走しつつ平押しのいく さをするのか、あるいは擦れ違いざまに射ち合う反航戦をやるのか、射撃指揮を一身であずかっている安保清種にすればそれによって射撃戦がずいぶん違ってくるのである。
この当時の射撃指揮は、その後に発達した便利な道具や理論がないために、安保自身の頭でさまざまな諸元を考え、彼自身の頭で照尺量を出して各砲に号令することになる。諸元というのはたとえば自分の艦の速力や大砲の射線、敵艦の速力や方向、風むき、風力などといったもので、それらを瞬時に計算して瞬時にだいたいの照尺量を出してこれを各砲に号令することである。
彼我の艦隊は刻々近づいている。安保清種は出来るだけ落ち着くように自分に言いきかさていたが、しかし彼我の速力が相当早く、気のせいか、まばた くごとに敵の艦影が大きくなるような気がする。
安保砲術長の部下が、測距儀に両眼を押しつけている長谷川清少尉であった。その長谷川が、
「距離八千五百メートル。──」
と言ったとき、安保砲術長はたまりかねて東郷と加藤に対し、 「もう八千五百メートルです」 と、言わでものことであったが陣形決定をせきたてたい気持もあって叫んでしまった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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