〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/12 (水) 

運 命 の 海 (十一)

風が檣頭で悲鳴をあげるように鳴りつづけている。
旗艦三笠の揺れがひどくなり、わずかにエンジンのひびきが床につたわってきていた。
艦内は無人の森のなかのように静かであった。配置についている兵員たちは凍りついたように身動きせず、私語をする者もなかった。新参の水兵たちは口中が あがり、喉に送るべきつば・・ がなくなった。黄海海戦を経験しなかった者も多かった。彼らはこの重苦しい緊張に堪えかね、自分のtyぎの行動と生死を決定してくれる号令を待ちかねていた。
前部艦橋では、人びとの位置は先刻と変わらない。東郷は相変らず両脚をわずかに開き、敵の旗艦スワロフを見つめつつ、ときどき胸もとの双眼鏡をあげたり、おろしたりしていた。
のち東郷に親炙しんしゃ した小笠原長生は、この午後一時五十分すぎの情景をこの艦橋の人びとからくわしく取材した。彼の文章を借りると、この時秋山真之が東郷に近づき、
── 先刻の信号、整へり。直ちに掲揚すべきか。
と聞いたという。
「先刻の信号」
というのはかねて用意した特別の旗旒きりゅう 信号のことで、のちに有名になるZ旗がそれであった。
艦隊の各艦とも信号書をもっている。その信号書に、この出動の数日前、四色Z旗一旒が掲げられた場合の信号文が、エンピツ文字で書き込まれていた。その文章については各艦の航海長か航海士が知っている程度で、艦隊のたれもが知らない。
すでに戦闘の開始は、分秒を数えるまでに迫っている。
真之が許可を乞うと、東郷はうなずいた。
真之が、すぐ信号長へ合図した。四色の旗はやがて飄風ひょうふう のなかに舞い上がった。
  皇国の荒廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ。
各艦とも、この信号文がすぐさま肉声に変わり、各部署の伝声管を通じて全員の耳に伝わった。
旗艦三笠にあっては、伝令をつとめていた河合太郎翁も、彼のそばの伝声管にひびいてきたこの声を聞いた、彼は大急ぎでそれを口移しに各パイプに伝声した。
当時、戦艦富士の後部十二インチ砲塔の砲員だった西田捨市翁も、この信号文を聴いた。伝声管の声はカン高く、しかも文語であるため意味はよく分からなかったが、この海戦に負ければ日本は亡びるのだというぐあいに理解し、わけもなく涙が流れた。
東郷が運動して行くにつれて風向きが変わった。東郷は風上に立った。東郷にすれば意図的にやったわけだが、一水兵にすぎなかった西田翁からすれば、これが奇蹟の現象のように感じられたらしい。
「じつに不思議でした。にわかに黒雲が出て、敵側に強風が吹きはじめたのです。風上に立てば砲の命中率はよくなります」
と、西田翁は大阪府摂津市浜町の自宅で語られた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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