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敵は濛気の壁を破って。 という表現を使っている印象記もある。たしかに濛気の壁を一艦また一艦打ち破って東郷の視界に入って来たという形容は、印象といて正確だったかも知れない。 そのバルチック艦隊のすべてが濛気のカーテンを背景にし、ややシッポはおぼろ
ながら主力の全容を東郷の視界にあらわしきったのは、午後一時四十五分ごろだったようである。 彼我ひが
の距離は、ざっと一万二千メートルであった。 東郷はかねて、 「戦闘は七千メートル以内に入らなければ砲火の効果はあがらない」 と繰りかえし幕僚たちに言っていたし、そのことは幕僚たちの方針というより覚悟になっていた。敵は九千メートル程度でもどんどん射ってくるであろう。東郷にすればその砲弾を浴びつつ沈黙のまま接近し、命中率の高い射程に入ったときに猛然と射撃を開始するつもりであった。 艦橋にいる旗艦砲術長の安保清種少佐は、三笠の全砲火を指揮するだけでなく、事実上艦隊そのものの射撃をリードせねばならない責任を負っていた。彼はすでに東郷の言葉を聞いていたから、 (今日は思いきった接戦をされる方針にちがいない) と、覚悟していた。 ──
思い切った接戦。 という安保の想像は、しかしその後に実現する東郷の指揮によって、想像と常識を超越した接戦であることを知るのである。 いずれにせよ、この午後一時四十五分ごろ、彼我の距離がざっと一万二千メートルのとき東郷がつぶやいたつぶやきを、かたわらの参謀長加藤友三郎はながく記憶していた。 「ヘンナカタチダネ」 ということであった。東郷は平然としていて、その表情もふだんと少しも変わらなかった。彼の海軍生活は幕末から数えて四十年に近く、その実戦経験は薩英戦争以来、世界中のふぉの軍陣よりも抱負であり、この切所せっしょ
に立ちいたっても妙な昂奮をするということはなかった。 「カタチ」 というのは、陣形のことである。たしかに、東郷の八倍の双眼鏡に写ったバルチック艦隊は、へんな陣形をしていた。 「堂々たる二列縦隊」 という印象を受けた目撃談が多いが、しかし実際はそうではなかった。ロジェストウェンスキーはロシア海軍におけるとっておきの秀才提督であったとはいえ、東郷のような実戦の経験は持っていなかった。 当然、海戦をやる場合、単縱陣でやらなければ味方の砲火の効果を十分にあげることが出来ないということをロジェストウェンスキーはよく知っていた。ただこの秀才は、この日本海の玄関に入ろうというぎりぎりの段階になって、うるさくつきまとう日本の捜索艦隊
(出羽の第三戦隊) のちっぽけな巡洋艦を追っ払おうという無用のことをして陣形を変えた。これがロジェストウェンスキーの重大な失敗であったことはすでに述べた。二列縱陣になった。それを単縱陣に変えようとしてあわただしく信号をあげたり速力の調整をしたりしているうちに合戦
(海軍用語) の時間と場所へ突入してしまったのである。 厳密には、二列でさえないのである。第一戦艦戦隊の右舷にそれに付き添うがごとく第一駆逐隊が並航し、その第一駆逐隊のうしろに特務船隊がいて、その特務船隊の後尾に左舷の第二駆逐隊がならんでいる。さらに第一戦艦船隊の左舷から少し遅れて第二戦艦・第三戦艦船隊の縦陣が走っており、それら全体の中央後方に第一巡洋艦船隊がいるといった具合で、らしかに、 「ヘンナカタチ」 であり、陣形などというよりダンゴになってやって来たというのが正確であろう。 |