旗艦三笠が、ついにロジェストウェンスキーの大艦隊を発見するにいたるのは、午後一時三十九分である。 「左舷南方」 といわれる。 厳密には南西であろう。その沖合いにこめる乳色濛気の中に点々と黒いしみ
がにじみはじめたかと思うと、その濛気のキャンバスを破るがごとくして、意外に大きな艦影が次々に出現した。視界が広くなかったためこの発見の瞬間には、すでにそれほど近い距離で遭遇するはめ・・
になったのである。 三笠の艦橋では、 「来た」 とも呟つぶや
いた者はいない。 艦長の伊地知彦次郎は、赭あか
ら顔に剛こわ いあごひげをはやし、ほんの最初に双眼鏡をのぞいたきり、目を遠目に細めて敵の艦影を見つめつづけている。 羅針儀のそばにいる航海長の布目ぬのめ
満造中佐は海図を覗き込んで敵味方の位置をはかり、そのややうしろに砲術長の安保清種少佐は弾道の時間をはかるてめのクロノグラフ (秒時計)
をにぎって敵をみつめていた。 参謀長の加藤友三郎少将は望遠鏡を目にあてたままほとんど微動もしなかった。 東郷平八郎はこれらの幕僚たちよりも半歩ばかろ前に出て立っていた。という意味では彼は連合艦隊のたれよりも敵に最も近い位置にあってその肉体を曝さら
していたということになるであろう。東郷は首から吊るしたそn自慢の双眼鏡をほんのすこしかざしただけで、あとは人並みはずれて視力のいいその肉眼によって敵をとらえようとしていた。彼は両脚を休メのかたちにしてわずかにひらき、左手に長剣のつか・・
をにぎり、身動きというものをまったくしなかった。彼の統率上の信条はどうやら、司令長官は全軍の先頭のしかも吹きさらしの空中 (前部艦橋)
にあって身動きをしないというところに基本を置いているようであり、その姿は、一種不動の摩利支天まりしてん
を見るようであったという。 この艦橋にあってクロノグラフをにぎっていた安保清種は、後年、 「その摩刹那せつな
の三笠艦橋における光景は、なんというか、荘厳そうごん
としか形容のしようのないものでした」 と、繰りかえし語っている。 先任参謀の秋山真之はこれらの群像の左後方にやや離れて立ち、秋山家の容貌の特徴である隆たか
い鼻を風になぶらせながら、ノートをもち、うつむいてそれへ敵情を書き込んでいた。そのあたりにも、なにか変人のにおいがあった。この場にいたってノートをとることがどれほど必要性があるのか、他の連中にはわからなかった。 これらの幕僚たちのうしろに、測距儀レンジファインダー
を覗き込んで敵との距離を測定している士官がおり、とこどき大声をもって距離をどなった。 眼鏡で拡大してみると、バルチック艦隊の艦体は、日本の軍艦が濃灰色であるのに対し、真っ黒に塗られていて空の色と区別することが容易であり、それに煙突が黄色に塗られていることも日本側の識別をたすけた。この黄色は、見る者によって多少、色がちがって見えた。 たとえば三笠、敷島につづいて波を蹴立てている戦艦富士の後部砲塔の砲員だった西田捨市三等兵曹の感じでは、 「どうも、白っぽい赤土色に見えました」 と、言う。
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