時間と空間が次第に圧縮されてゆく。刻々ちぢまってゆくこの時空
は、この日のこの時間だけに成立しているものではなく、歴史そのものが過熱し、石を熔と
かし鉄をさえ燃え上がらせてしまうほどの圧縮熱を高めていたといってよかった。 日本史をどのように解釈したり論じたりすることも出来るが、ただ日本海を守ろうとするこの海戦において日本側が敗れた場合の結果の想像ばかりは一種類しかないということだけは確かであった。日本のその後も今日もこのよには存在しなかったであろうということである。 そのまぎれもない蓋然性がいぜんせい
は、まず満州において善戦しつつもしかし結果におおいては戦力を衰耗すいもう
させつつある日本陸軍が、一挙に孤軍の運命に陥り、半年を経ずして全滅するであろうということである。 当然日本は降伏する。この当時、日本政府は日本の歴史の中でもっとも外交能力に富んだ政府であったために、おそらく列強の均衡力学を利用して必ずしも全土がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの租借地になり、そして北海道全土と千島列島はロシア領になるであろうということは、この当時の国際政治の慣例から見てもきわめて高い確率を持っていた。 むろん、東アジアの歴史も、その後と違ったものになったに違いない。満州は、すでに開戦前にロシアが事実上居すわってしなった現実がそのまま国際的に承認され、また李朝鮮もほろんどロシアの属邦になり、すくなくとも朝鮮の宗主国が中国からロシアに変わったに相違なく、さらにいえば早くからロシアが目をつけていた馬山港のほかに、元山港や釜山港も租借地になり、また仁川付近にロシア総督府が出現したであろうという想像を制御出来るような材料はほとんどないのである。 日本海海戦は、幕末から明治初年にかけての革命政治家である木戸孝允たかよし
が、生前口ぐせのように言いつづけていたところの、 「癸丑申寅きちゆうこういん以来」 という歴史のエポックの一大完成現象というべきものであった。 癸丑はペリーが来た寛永六
(一八五三) 年のことであり、申寅というのはその翌年の安政元年のことである。この時期以来、日本は国際環境の苛烈な中に入り、存亡の危機を叫んで志士たちがむらがって輩出し、一方、幕府も諸藩も江戸期科学の伝統に西洋科学を溶接し、ついに明治維新の成立とともにその急速な転換という点で世界史上の奇蹟といわれる近代国家を成立させた。 同時に海軍を、システムとして導入し、国産の艦船をつくる一方、海上より来る列強の侵入を防ぐだけの戦略を検討しぬいて確立し、山本権兵衛を代表とする、勝つための艦隊の整備を行った。 要するにあらゆる意味で、この瞬間から行われようとしている海戦は癸丑申寅以来のエネルギーの頂点であったといってよく、さらに翻って言えば、二つの国が、互いに世界の最高水準の海軍の全力をあげて一定水域で決戦をするという例は、近代世界史上、唯一の事例で、以後もその例を見ない。 |