連合艦隊は、南下をつづけている。 旗艦三笠の艦長伊地知彦次郎大佐は、この当時の海軍でもっとも優秀な船乗りといわれていた。彼はバルチック艦隊の旗艦スワロフの艦長イグナチウス大佐とただ一点で共通していた。海戦ともなれば彼我
の砲弾がお互いの旗艦に集中し、おそらく生きて故国の土を踏めないだろうという点においてである。 伊地知はこの戦場への航行中に総員に対して別れの挨拶をしておこうと思った。 彼は総員を後甲板に集め、一段高い場所に立った。 ときに風力は六である。風向きは偏西で、波は依然として高く、三笠のような戦艦でさえ横ゆれがひどかった。このため後甲板に整列した総員は、みな両足をふんばっていた。 伊地知は、母音をゆるやかに曳ひ
く薩摩なまりのつよい言葉で、 「これより本職最後の訓辞をする」 と、叫んだ。風が声を吹きちぎって、後列の連中にまではよく聞こえなかった。 伊地知の訓示の内容は、わが艦隊はいまから二、三時間後にバルチック艦隊と相見あいまみ
えることになった、長い期間、鎮海湾でおこなった訓練はただこの一戦のためのものである、全国民がわれわれに期待しているところはすこぶる大きい、うんぬんというもので、最後に、 「この世における最後の万歳を唱える」 と言い、すべての者が声をかぎりに祖国の永遠のために万歳を唱えた。その声は日本海の怒濤の上を走ったが、妙なことにそれがこだま・・・
として戻って来た。たれもがそのこだま・・・
を聞いた。山も島もないのにこだま・・・
するはずがなく、人びとの幻聴か、それとも偶然他の艦の万歳がかすかに聞こえて来たのかも知れなかった。 戦艦朝日の機関室では、機関長の関重忠が写真の手入れをしていた。 彼は当時としてはめずらしく写真に興味があり、写真屋が持っているあの大きなキャビネ型三脚つきの機械を持っていた。日本海軍で個人として写真機を持っているのは十数人いたが、撮影技術がたしかなのはこの関重忠ぐらいのもので、この当時の作戦中の軍艦の写真はほとんど彼が撮と
ったものであった。しかしいざ戦闘になれば関は機関室にもぐっていなければならないため、かんじんんお戦闘中の実況を撮るわけにはいかなかった。 「ぜひ、君が撮ってくれ」 と、関は一人の西洋人に念を押していた。 西洋人はW・ペケナムという英国海軍の大佐で、観戦武官として戦艦朝日に乗り組んであり、観戦とは言い条、戦士の確率はどうやら高そうだということを覚悟していた。 関重忠はかつて七年間英国に留学していたため英語が流暢りゅうちょう
で、このためペケナム大佐のためにずっと通訳を引き受けてやっていた。 関は海戦の実況が撮れないことをくやしく思い、これより前ペケナムにすすめてコダックを買わせていた。 「艦橋の上に立っていれば飛んでくる砲弾だって撮れるさ」 とペケナムは陽気に笑っていたが、ただ観戦という目的だけで戦闘中に艦橋にのぼることはよほどの勇気を要することだが、この英国人はそういう点では平気のようであった。 |