この海域に孤島がある。 「沖ノ島」 と呼ばれていた。 歴史以前の古代、今の韓国地域と日本地域を天鳥船
などというくり・・ 舟に乗って往来する人びとには、このいわば絶海の孤島がよほど神秘的なものとして印象されたらしく、この島そのものを神であるとし、祭祀した。極東の沿岸で漁撈ぎょろう
をしている種族は、文字が出来てからの名称では安曇あずみ
とか宗像むなかた とかいっていたらしい。 中国の上代では、おそらく日本でいう安曇や宗像などという人びととよく似た連中で遼東半島や朝鮮西海岸に住んでいる漁撈集団のことを、?わい
などと呼んでいたらしい。 ?わい
は消えてあとかたもないが、日本の場合、その集団が信仰していた沖ノ島はなおも九州の宗像大社の海中における神体として崇敬されている。近年、学術調査が行われ、祭祀や生活に用いられた弥生式やよいしき
土器が多く発見されたことで有名である。 沖ノ島は、島というより海上から見ると巨大な岩礁のように見える。島のまわりは四キロほどで、ことごとく切り立った断崖をあなし、島をめぐって流れるのが対馬暖流であるせいか、この島は植物学の方では亜熱帯樹の北限とされ、檳?樹びんろうじゅ
などの原生林でおおわれている。宗像の神体であるために今でも女人禁制で、男子のみが住んでいる。 その居住者も神社の職員一人と、燈台の職員二人にすぎない。燈台は大正十年の建設だから、日露戦争のころはまだ所在していなかった。 日露戦争当時、この沖ノ島の住人というのは、神職一人と少年一人で、要するに二人きりである。 二人とも神に仕えている。 神職は本土の宗像大社から派遣されている宗像繁丸という主典で、祭祀をやる。少年は雑役をする。宗像大社の職階でいえば
「使夫」 である。 少年の名は佐藤市五郎といった。明治十九年筑前ちくぜん
大島の生まれで、海の中から生まれたように泳ぎが上手だった。明治三十五年三月福岡県大島高等小学校を出るとすぐこの神体島の使夫になった。 二人きりの島に、下士官を長とする五人の水兵がやって来たのは、日露戦争が始まると同時だった。 彼らは、現在燈台のある一ノ岳
(島の最高峰・二四三メートル) に望楼を設けた。近くを通る船舶の監視のためだった。 もっとも開戦第一年目の六月十五日に陸軍部隊を乗せた常陸丸ひたちまる
がこの島の西南海上でロシアの巡洋艦に撃沈されたため、他の設備も設けられた。たとえば下関からこの沖ノ島をへて対馬の厳原に通じる海底電線も敷設された。このため通信番一名、通信技手二名、電信工夫一名、これに望楼長を含め計が常駐した。また燈台のかわりに
「燈竿」 という航路標識も設けられた。さらに社務所前の岩に八サンチ海軍砲一門もすえつけた。 この少年佐藤市五郎が、この沖ノ島の頂上に近い大きな木の上に登って、眼下に展開する日本海海戦を目撃したのである。 |