佐藤市五郎氏は、この稿を書いている現在、病気療養中だが、満十八歳だった当時のことはよく覚えておられる。 彼がそれを毎日書くように命ぜられていた社務所の日記が残っている。その五月二十七日の項を見ると、当日の天候は、 「西風強・曇・天霧霞」 とある。 「この日は昨夜から西風が強く吹きすさんで、海上はひどいシケせした」 というのは、市五郎氏の談である。 このシケのために正午前に対馬のイカ漁の漁船が島に漂着して来たので、市五郎は、漁夫を島にあげてやり、その旨を、新設の海底無線で対馬の厳原に報せてやろうと思い、 「私が海軍さんに頼んであげます」 といって、一ノ岳の上の望楼まで山道を登った。 望楼の兵舎に入ると、全員が顔をこわばらせて何事か協議している。彼は望楼長の笠置竜馬一等兵曹に可愛がられていた。笠置に漂着船のことをいうと、 「市五郎よ」 と、笠置は困ったような顔で、 「今日は民間の電信はやれないんだ」 そう言って、テーブルの上の一枚の電信の翻訳文をとりあげて市五郎に見せた。市五郎が読むと、 「敵の艦隊は、対馬東水道を通過するもののことし、警戒を要す」 とあった。つまりバルチック艦隊がこの沖ノ島付近を通るのである。市五郎はわけのわからぬ叫びをあげて望楼兵舎を飛び出し、下のほうの社務所までかけもどって主典の宗像繁丸に急報した。市五郎はこのただ一人の上司である主典のことを、 「宗像先生」 と呼んで、この世でもっともえらい人だと思っていた。宗像繁丸は昼食の膳部を前に置き、空
のめし椀に茶を注つ
いでいるところだった。市五郎から報告を聞いたが、うん、とうなずいて変に泰然としている。 ところがその直後に社務所の電話のベルが鳴った。頂上の望楼との間に電話がひかれていた。宗像繁丸が受話器をとりあげると、 「バルチック艦隊が沖ノ島近海にせまった」 という望楼の水兵の声が飛び込み、すぐ切られた。 宗像は突っ立ったままみるみる血相が変わり、その場で褌一本の素っ裸になった。 「市五郎、来い」 というなり、海岸へ駈けおり、岩の上から海へ飛び込み、潔斎けっさい
をしたあと装束をつけ、社殿へかけのぼった。坂を登りつめたとき、西南の沖にあたって、濛気がピカッと輝いて消えた。そのあと、身のすくむような砲声が聞こえた。 「これが、この大海戦のはじめての砲声でした」 と氏は言うのだが、時間から言うと、バルチック艦隊が、うるさくつきまとっている日本の巡洋艦群を射った砲声であるようだった。 宗像は神殿で懸命に祝詞のりと
をあげた。その間、砲声が矢つぎばやに響いた。宗像のうしろにすわっている市五郎は、身がしきりにふるえ、むやみに涙がこぼれてどうにもならなかった。 |