この誤射は、意外な効果をもたらした。遁走
してしまった日本の第三戦隊を見て、バルチック艦隊の士気が大いにあがったのである。 「日本の艦隊など、大したことがないじゃないか」 と、たれもが言い、たれもがそう言い騒ぐことによってあの重苦しかった開戦前の緊張から抜け出そうとしているようでもあった。 もともとバルチック艦隊の乗組員は、かつてロシアの現役兵を以って編制されていた旅順艦隊に対し、練度や技倆の上で強い劣等感があった。その強いはずの旅順艦隊を東郷艦隊がたたき沈めてしまったために、 ──
われわれは東郷の部下にはとても勝てないのではないか。 という気持があり、その不安がこの艦隊の士気をさえないものにしていたのだが、その不安が一時に晴れたような思いが、全艦隊にみなぎった。 砲戦は十分ほどで終わった。誤射によって発射されたロシアの砲弾は第三戦隊を傷つけはしなかったが、しかし応射した日本側の砲撃も、一弾といえども当らなかった。 「たいした腕前じゃないよ」 と、たれもが安心した。 もっとも日本の砲弾が水中に落下したときの異様さについては、多くの者が気づいた。 砲弾が海に吸い込まれると同時に滝が逆流するようにして海面が盛り上がるというのはどこの国の海軍の砲弾も同じである。ただ日本の砲弾の水煙には黒い煙が膜を張ったように渦巻いていたことである。 「あれが、下瀬しもせ
火薬か」 と、戦艦アリョールのユング艦長がおどろきの声をあげた。触れるものをことごとく火にしてしまうという下瀬火薬の異様な威力についてはさんざん聞かされて来たのだが、目で見るのは初めてだった。 旗艦スワロフの艦橋からは、この日本の砲弾の落下状況はよく見えなかった。 ただ小うるさくついて来た日本の巡洋艦群があわ・・
を食って逃げてしまったことについて、ロジェストウェンスキーは不愉快ではなかった。だからこの命令のない射撃についていつものあの派手な叱責の言葉を送らず、 「砲弾ノ無駄使イヲヤメヨ」 という程度にとどめたのである。 旗艦スワロフの士官集会室では、ニコライ二世の戴冠記念の祝宴が張られた。
祝盃の音頭は、マケドンスキーという中佐がとった。彼は、 「陛下の神聖なる戴冠記念日たる今日、われらはいさぎよく祖国のために赤誠せきせい
を尽くそうとしている。神の加護のあらんことを。皇帝陛下ならびに皇后陛下、ロシア帝国万歳」 と言った。それに和し、出席した士官一同が、 「万歳ウラー
」 と、声をあげた。ウラーは三声あがった。その第三声目がおわったころ、上甲板の一角から戦闘用意のラッパが鳴りわたった。日本の巡洋艦群がふたたび引っ返して来たのである。
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