〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/01 (土) 

沖 ノ 島 (六)

片岡の第三艦隊は、バルチック艦隊に密着した。
針路はバルチック艦隊と同様、北東である。彼ら日清戦争生き残りの艦たちは、バルチック艦隊の左舷前方四ないし五海里の位置を占め、あたかも同艦隊の一構成のようにして並航した。
旗艦厳島を先頭に、鎮遠、松島、橋立というぐあいに単従陣で進んでいる。
「松島」
二等巡洋艦、四二一トン、十六ノットの艦長は大佐奥宮衛であった。
彼はたえう望遠鏡を敵の艦影にあて、敵がいつ砲門を開くかを注視していた。もし敵が、この巡洋艦群を撃沈させようとすれば容易であった。奥宮は元来汗っかきでもあったが、しかしこの時ばかりは望遠鏡から水がしたたるほどにてのひら が汗で濡れた。
彼は自分の艦を統率する責任者として、その士気が気がかりだった。
逆上のぼ せている者もあるのではないか)
と思い、艦橋を離れて上甲板を一巡すると、みしろ彼の方が恥かしくなるほどに下士官や水兵たちは落ち着いていた。所定の位置に休息して命令を待っている者、数人がむrがって敵の勢力や陣形を評している者など、べつに普段と変わりがなかった。この点、緒戦の旅順攻撃以来、多くの海戦を経てきた日本側の将兵は、バルチック艦隊の乗組員よりも戦闘前のこの異常な緊張に馴れがあった。
たまたま一軍医が通りかかった。
奥宮はその軍医が薩摩琵琶さつまびわ に堪能であったことを思い出し、
「琵琶を持っているか」
ろ、聞いた。軍医は士官室に置いてあります、と答えた。奥宮が一曲たのむ、というとその軍医は士官室の方へ去った。
やがて上甲板に出て来て、艦橋の下に座った。
艦首に波が砕け、とこどき霧を噴き上げるように飛び散った。上甲板はかすかに一高一低している。そのなかにあって軍医は撥をたたき、 「川中島」 を弾じはじめた。
艦長の奥宮にすれば士気を鎮静させるつもりで琵琶を弾じさせたのだが、聴いているうちに彼自身がひどく昂奮してきた。艦は風浪を衝いて走っている。曲は一急位置緩しつつ、やがて琵琶歌が佳境に入って上杉謙信が長剣をあげ、単騎馬をあおって敵陣に突入するあたりになると、艦のあちこちにいる士官からかけ声がかかったりした。松島の立場はあたかも単騎敵陣に突入する謙信に似ていた。ただし突入が任務でなく、敵にどうきらわれようとも、東郷の主力部隊が出現するまでのあいだバルチック艦隊に密着するのがこの第三艦隊の仕事であった。密着とはいえ、敵の射程内外に位置している以上は、突入以上に危険であった。
つづいて中将出羽でわ 重遠しげとお が率いる第一艦隊の第三戦隊も第三艦隊の第五、第六戦隊につづく形で接触していた。彼らは敵が射って来ないためしだいに図々しくなり、さらに敵との距離をちぢめた。わずか三、四千メートルまで接近したとき、右正横の敵艦隊から閃々と火光がきらめき、やがて海を圧する砲声が聞こえ、笠置や音羽の前後左右に巨弾が落下しはじめた。
第三戦隊は巡洋艦のあつまりだけに、敵主力との砲戦ではとてもかなわない。あわてて遠ざかった。しかし遠ざかりすぎても敵を見失うおそれがあり、この間の兼ね合いがむずかしかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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