〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/08/01 (土) 

沖 ノ 島 (五)

中将片岡七朗が率いる第三艦隊が、日清戦争の老朽艦を集めて編制されているということはすでに触れた。彼らが、予想されている戦場にもっとも近い対馬で待機していたということも既述のとおりである。
東郷がこの老朽艦隊に負わせている役目は、いちはやくバルチック艦隊と接触し、接触を保ちつつその敵艦隊を東郷の率いる主力艦隊に引き渡すというものであった。
「第三艦隊は、ロジェストウェンスキー提督を案内して東郷提督と引き合わせるというのが主な役目だった」
というような表現で、この第三艦隊の参謀百武三郎少佐はのちに語っている。
この艦隊の旗艦厳島以下が波にもまれつつ進み、やがて午前九時五十五分、神崎こうさき の南微東七海里半の地点において南方の天を黒々と染めている煤煙を見た。
「敵ですね」
と、百武は双眼鏡をのぞきながら小さな声で言った。片岡がうなずいた。厳島の艦橋はしばらく沈黙が支配した。
すでにこれより前、第二艦隊に属する第四駆逐隊 (朝霧、村雨、朝潮、白雲) は敵と接触した。
この四隻の駆逐艦の大胆さは、さきに一艦で接触した和泉以上であった。この駆逐隊の司令は、日本海軍の駆逐隊指揮官のなかで最も優れたひとりとされる鈴木貫太郎中佐であった。ついでながら、彼の生涯は数奇で、彼の晩年、太平洋戦争の戦況が最悪状態におち入って日本の滅亡が予想される時期に起用され、内閣総理大臣になり、四月七日 (昭和二十年) 内閣を成立させ、八月十五日の終戦という当時としては内政上容易ならざる課題をまとめあげて解決したことで知られている。
鈴木は朝霧に乗っていた。彼が率いる四隻の駆逐艦はいずれも排水量わずか三七五トンで、速力は二十九ノットから三十一ノットであった。
「この朝、私どもは対馬の尾崎湾にいた。例の信濃丸の無電は感じず、八幡丸と和泉の無電を感じた。すぐさま抜錨して出動したが、ときに午前五時ごろだったと思う」
四隻の小さな駆逐艦は二十ノットの速力でもってどんどん南へくだった。艦首で波頭を蹴破ったかとみると、艦尾のスクリューが波間で空転したり、かと思うと横だおしになるほどに傾いたりして、この朝の風浪は小艦艇にとって実につらかった。
天気は決して 「晴朗」 ではなかった。海上の濛気のために視界は五、六海里を展望し得るにすぎなかった。
この四隻の駆逐艦が、午前九時、東方に敵影をみとめたのである。
彼らはずっと接近していって、ついに左舷前方七、八千メートルの距離まで近づき、以後密着して離れず、ひどいときは三千メートルまで近づいた。もし敵艦隊の主砲をくらえば、こなごなになるほどの距離である。
この鈴木の第四駆逐隊からの無電のおかげで、片岡の第三艦隊主力は途中迷うことなく午前九時五十五分、バルチック艦隊と遭遇することが出来たのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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