加藤参謀長が、東郷に
「艦隊に出港を命じます」 と了解をもとめたあと、航海参謀が意を受けて信号長に対し、大声でそれを伝えた。 「予定順序に各隊出港」 と、号令した。 この伝達のスピードはじつに迅
かった。信号長から信号兵に伝わり、信号兵がマストに最初の旗をあげるまで一分とかからなかった。 これから各艦への命令伝達に無電は使われず、すべて旗旒きりゅう
信号が用いられた。伝達は艦隊から戦隊へ、戦隊から単艦へと伝わってゆく。 信号長は、三笠の艦橋の旗甲板に立っている。きらきらと綴られてゆく旗の言葉に対し、これを受ける各艦は、応旗アンサー
を半分だけあげ、やがて三笠がことごとく言い終わると、各艦は応旗をいっぱいにあげ、了解したことを返答した。 「各艦、リョーカァイ」 と、旗甲板から信号長がどなった。航海参謀が潮風のなかでそれを受け、そのまま加藤参謀長に復命し、加藤参謀長が東郷に伝えた。東郷がうなずくと、航海参謀はふたたび信号長にむかい、 「おろせ」 と、信号旗をおろすよう指示した。 このときすでに各戦隊では、 「出港用意。錨いかり
をあげ」 と、命じていた。 各艦とも同じ風景だが、ラッパが鳴り、伝令がピーッと号笛ごうてき
を吹いて艦内を駈けまわっていた。 どの艦でも錨鎖ケーブル
を巻き上げる機械 (キャプスタン) がカタカタと激しく鳴って艦体をふるわせていた。 「総員石炭捨て方かた
」 という前代未聞みもん
の号令が、このときどの艦にも出た。 この時期までどの艦も甲板まで石炭を積み上げ、砲のそばにも砲塔がやっと動く程度に積み上げられており、上甲板での石炭袋の山は、人の丈たけ
を没するほどであった。このことは繰り返すようだが、敵が津軽海峡に来た場合のためであった。それらを 「総員」 がどんどん海へ捨てた。ただしこの炭塵たんじん
の飛ぶ作業に砲員だけは参加しなくてもよいという指示も出た。炭塵から砲員の目を護るというのが理由だった。 「三笠」 の上甲板では、河合太郎ら軍楽手もこの石炭袋の海中投棄のために気が狂ったように働いた。カマスをほうり投げる者、受けとめる者、かつぐ者、海へほうりこむ者、まったく異様な作業だった。このころの英国の無煙炭は一トン二十五円という高価なものであった。中年小学校教員の月給ほどもある額で、河合太郎はこの
「捨て方」 の作業に参加しながら、 (これで天丼てんどん
が何杯食えるやら) と、思った。このころの店家てんや
モノでもっとも豪華なものといえば天丼だった。 |