〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/07/27 (月) 

抜 錨 (七)

この電文について、いま少しつづける。この電文において、
「之ヲ撃滅セントス」
という表現を用いている。このことはこの時代を知るために重要な課題が含まれている。この時代の軍人の軍隊文章というのは、陸海軍を問わず、現実認識という軍人にとってもっとも重要な要素から決して浮き立つことをしなかった。要するに、こういう極端なあるいは誇大な用語はこれ以前に使われた事がなかった。ついでながらこの種の誇張表現が軍隊の中で日常的に使われはじめたのは、軍人が官僚化し、あるいは国士気どりになって、現実認識の精神を忘れてしまった ── としか言いようのない ── 昭和期に入ってからである。昭和期とくに日中事変前後から軍人のこの種 (現実認識と無関係な誇張の文章を書くという) の傾向は、昭和軍隊のもっとも深部のなかにおける頽廃たいはい に根ざしていると考えていい。昭和期の陸軍では、中隊長あたりの小さな団隊長の報告文さえこの種の誇張表現がちりばめられていた。
しかし日露戦争の東郷の司令部があえて使ったこの 「撃滅」 という言葉には、いわば法理的とさえいえる背景と戦略的妥当性と十分な現実認識があった。
昨年十二月下旬をもって旅順艦隊を覆滅したあと、東郷は報告のために帰京した。このとき参内さんだい し、明治帝に拝謁した時、帝が、
「露国の増遣艦隊 (バルチック艦隊) が来るというが、見込みはどうか」
と、問われた。ついでながら東郷には海軍大臣山本権兵衛と軍司令部長伊東裕亨すけゆき が同行していた。東郷はこの一座ではもっとも小柄であった。
しかも平素無口で、入念慎重な性格であり、その青年時代から経てきた数多くの戦闘においては、しばしば切れ味のいい指揮を見せて来たが、しかし大言壮語ということからおよそ遠い性格であった。その東郷が、
「かならずこれを撃滅・・ いたします」
と、ぼそぼそと言上したのである。
この 「撃滅」 という極端な表現には伊東も山本もよほど驚いたらしく、あとで、
── 東郷のやつ、とんでもないことを言上した。
と両人が何度もぼやいた。両人とも東郷と同様、薩摩人であった。薩摩ではむかしから誇張表現や観念的な表現の習慣がなく、それを卑しむ傾向のほうがつよかった。東郷は天子に向かってホラを吹く気か、という明治人らしいおそ れと、それとはべつにひそかながら、
(この薄ぼんやりとした東郷が、存外・・・・)
という、見直して頼もしく思う気持とがこもごも両人にあった。後年、この話題が出るたびに両人はあのときの東郷を可笑しがったというが、それほど明治軍人の感覚から誇張表現は遠かった。
しかしこの大本営に対し東郷が打つ電文にあっては、東郷としては明治帝に約束したとおりの言葉を使うべきであった。東郷の言上については、若い幕僚まで知っていたため、この草稿になったのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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