日本の気象学と気象行政は、明治八年、東京赤坂で気象観測された時から始まる。 同十五年に東京気象学会が設立され、同十七年に全国を七つに分けて地域の気象と予報が発せられた。 しかし日本の気象学を実際に起こすにいたった人物は、岡田武松
(一八七四〜一九五六) である。 岡田は明治三十二年に東京帝大理科大学物理学科を卒業し、中央気象台につとめた。 年表風に言えば、岡田の恩師の長岡半太郎が、この前年に原子核の存在を予言している。 岡田が中央気象台に入ってほどなく日露戦争が始まったため、彼は予報課長兼観測課長として、大本営の気象予報を担当することになった。 戦争の運命を決定するのはときに気象であるということは、古くから言われている。このため日本は海戦前後から戦場の周辺に測候所を設置しはじめた。韓国内では、釜山
、仁川じんせん など数ヶ所に置かれ、華北では天津に置かれた。 日本は気象学やその行政の面でも背伸びしていた。岡田は、 「日本はロシアを相手に宣戦布告したが、世界中は日本を遅れた国だと思っている。だから英文の報告を世界の気象台や気象学会に送るべきだ」 として、戦時予報のために毎日へとへとになっていながら、
「中央気象台欧文報告」 という海外向けの雑誌を発行した。岡田自身が編集し、論文も書いた。筋の通った気象研究者が何人もいないため、一つの号で岡田が四つも五つも論文を書いた。その可憐かれん
さは、さきの宮古島の五人の漁夫に似ており、無私な作業といってよかった。 いよいよバルチック艦隊との衝突が近いというころになると、岡田は毎日の天気予報のために文字通り骨身をすりへらした。 とくに五月二十六日の岡田は、 (ひょっとすると、海戦は明日か明後日に) という予感があった。このため二十六日午前六時の天気図の判断にはじつに苦心した。 この天気図の材料は、前線の測候所から送られてきたものであった。 この二十六日午前六時という時限において、中心示度九九七ミリバールの低気圧が九州上空に存在している。いまひとつ九八九ミリバールの優勢な低気圧が旅順・大連のある遼東半島付近にあり、このため九州方面から朝鮮半島、遼東半島あたりに雨が降りつつある。 さて、明日二十七日の天気であった。 それも海戦が予想される海域上での天気である。それと今日の天気図とをにらみつつ予想をたてるのは、学理以外に経験が必要であった。岡田は六年の経験があった。 岡田は考えぬいたあげく、一個の断を下した。そのあとに、文章化する作業がある。 岡田は筆をとって、 「天気晴朗なるも浪高かるべし」 と、書いた。一気に書いたという。 これが大本営の無線室から鎮海湾の三笠に送られた。その天気予報が、真之の机の上に載っていたのである。 彼はむろん岡田という東京にいる技師を知らなかった。この無駄のない予報年文をとりあげ、さらに簡素にし、 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」 と書き加えたのである。 |