入電した時真之は後甲板にいたことはすでに述べた。 彼は例の奇妙な踊り
をやめて、おそろしく速い足どりで歩きはじめた。当然のことながら 「敵艦隊見ゆ」 の瞬間に彼は幕僚室にいないとまずいのである。駈けたかったが、参謀が血相変えて走っているようでは、人びとは何事があったのかと疑い、士気にかかわるだろうと思った。このため大またの急ぎ足になったのだが、ちょうどフルスピードわ出した水雷艇のように尻がやたらと左右に動いた。真之はもう満で三十七歳になっていたが、腰まわりに変化がなく、目方も兵学校のころとはさほど変わらず、よくしまった筋肉質の体は、無駄がなさすぎるのがむしろ難点といえるほどに小気味よく均斉がとれていた。 彼は幕僚室に帰ると、机の上に両ひじをつき、上体を乗りだし、癖のあるするどい目をぎょろぎょろさせてまわりを見た。 作戦参謀である真之のなすべきことの九割まではこの事前においてすでに終了した。あとは戦いにのぞんでその結果を神の前でテストを受けるのみであったが、しかしいまただちにやらねばならぬことが、すくなくともひとつはあった。 大本営に電報を打つことである。 連合艦隊司令長官である東郷が、決戦場に向かうに当り、故国に向かってその決心を述べるための電報であり、その起草をしなければならない。 真之はのちのちまで日本海軍の神秘的な名参謀といわれた。そのため、この有名な電文の起草者が彼であるということになった。彼は秋山文学といわれたくらいに名分家であったことも、その誤解を生んだ。 この電文は、真之が起草したものではなかたt。 げんに、真之の目の前で、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが、しきりに鉛筆を動かしている。 やがて飯田少佐が真之のところへやって来て、草稿をさし出した。 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯・
合艦隊ハ直ただち ニ出動、之ヲ撃滅セントス」 とあった。 「よろしい」 真之は、うなずいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとに持って行くべく駈け出そうとした。そのとき真之は
「待て」 ととめた。 すでに鉛筆を握っていた。その草稿をとり戻すと、右の文章につづいて、 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」 と入れた。 後年飯田久恒は中将になったが、真之の回顧談が出るたびに、 「あの一句を挟はさ
んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」 と語った。たしかにこれによって文章が完璧かんぺき
になるというだけでなく、単なる作戦用の文章が文学になってしまった観があった。さらにそれ以上の意味も含まれているのだが、そのことはあとで述べる。 じつをいうと、この、 「天気晴朗ナレドモ浪高シ」 という文章は、朝から真之の机の上に載の
っかていた。東京の気象官が、大本営を経て毎朝届けて来る天気予報の文章だったのである。 |