艦隊のどの将士も、艦から見える鎮海湾の山々や、加�ｺ水道の海の色、巨済島の硬質の地肌がつくり出しているこの碇泊地の風景に飽きていた。
鎮海湾はそのまわりを高さ七十メートル前後の樹木のない山によって囲まれている。
どの山のみどりも淡く、日によってはあかるい黄土色に見えたりした。この朝がそうであった。その黄土色の起伏が、背景（バック） になっているおそろしく濃い紺色のぁがやきをもった初夏の空に押し出され、海にせまっていた。まだ昇りたての新鮮な太陽は陸地にさまざまな光線の隈（くま） どりをつくっている。そのせいか、早暁の海の色は神聖色を感じさせるほどに深いなにかを湛（たた） えていた。
戦艦富士の砲員だった西田捨市三等兵曹は、いまも大阪府下で健在である。
西田氏は大阪府摂津市浜町の生まれで、氏の語るところでは、明治三十四年に大規模な海軍志願兵募集があった。当時摂津市は三島郡味舌（ました） 村といったが、その味舌村の村長さんが、
「わしの名誉のためにぜひたのむ」
と、応募をすすめた。このあたりの気分は宮古島の島司と五人の関係にやや似ている。
西田氏は頑健な若者で、みるからに海軍むきの体つきをしていた。三島郡内で三十九人の応募者があって三人合格した。
訓練は呉海兵団で五ヶ月、横須賀の海軍砲術練習所で六ヶ月の教育を受けた。
彼の部署は、戦艦富士の後部主砲 (十二インチ) の砲員で、艦底の弾薬庫から百六貫という砲弾を揚弾機で引き上げて弾込めをする役目だった。
敵艦隊見ゆの報が伝わって来た時、氏はうずくまって砲の整備作業をしていたが、頭がガンガン鳴ってきて手が動かず、
「日本がもし負けたら、どうなるかなあ」
と、そればかりを思い、涙がこぼれて仕方がなかったという。
加藤参謀長は、なお長官公室にいる。電報の翻訳文を見せたあと、蒼白のひたい（・・・） を光らせて、
「艦隊に出港を命じます」
と、東郷の了解を求めた。
「うん」
東郷が、うなずいた。東郷が民族の興亡を決すべき運命の戦いへスタートするにあたって、意思表示したことといえばただそれだけだった。彼はよく整った品のいい顔つきをしていたが、その表情から先ほどの喜色が消え、ふだんの東郷の顔つきにもどっていた。ちょうど陽のよく当る場所で田の面（も） をながめている老農夫の顔のように平凡で静かで、すこしの劇的要素もなかった。日本人は情景が劇的であればあるほどその主観的要素を内部にしまいこんでしまうところがあり、東郷のこの光景は能に似ていた。
各艦はただ命令を待つだけになっていた。
あらかじめ各艦に対しては、
「文書による事前令達」
ろいうものが出ていた。出港順序などもわかっており、石炭はすでに二日前に補充が完了していた。さらに機関もウォーミング・アップしており、どの艦の煙突からも煙が出ていた。
命令あり次第、全艦隊は無言無声のまま、するすると出て行けるようになっていたのである。この点も能に似ていた。