信濃丸が発した 「敵艦隊見ゆ」 の無電は、対馬に碇泊（ていはく） 中の第三艦隊旗艦厳島から鎮海湾の三笠宛、午前五時五分に中継打電された。
すでに暗合が決められている。タ（・） の字をづづけさまに七度打つのである。
「タタタ　タタタタタ」
この早暁、鎮海湾から加�ｺ水道にかけて錨をおろしているあらゆる軍艦の無線機が、いっせいに鳴った。
むろん三笠の無線機も鳴った。
このとき、軍楽手河合太郎は、他の三人の軍楽手といっしょに無線助手をつとめていた。無線機を操作する助手ではなく、伝令であった。無線掛が受信すると、その暗合を翻訳し、それを封筒に入れる。その封筒を持って司令部へ突っ走るのが役目であった。
四人のうち一人ずつが当番でこの仕事をするが、この日の当番は運悪く河合太郎ではなく、河合より二つ年下の一等軍楽手加瀬順一郎であった。
受信は海軍軍司令部編の公刊戦史では、
「午前五時五分ごろ」
となっているが、河合の記憶では、加瀬順一郎が走り出した時には、兵員たちは甲板で体操をしていた。毎朝午前五時ごろに、
「総員起こし」
というのがある。艦内でいっせいに起き、手のあいた者はぜんぶ甲板に出て十分ばかり体操をするのである。
そこへ加瀬順一郎が走って来た。走りながら、
「そら来たぞっ」
と、叫んだ。体操をしている手足がいっせいにとまり、みな総毛立つような衝撃の中でこれを聞き、いっせいに持ち場に向かって散った。
このとき秋山真之（さねゆき） は後甲板でひとり体操をしていたが、このとき近くにこの旗艦の砲術長の安保清種（あぼきよかず） 少佐がいた。安保の記憶では真之の動作が急に変化して片足で立ち、両手を阿波踊りのように振って、
「シメタ、シメタ」
と踊りだしたというのである。
「秋山さんは雀踊（こおど） りしておられた」
と、安保は後々まで言った。
── 敵は津軽へまわるのではないか。
という疑念が、えたいの知れぬ怪物のようになってここ一週間ばかりの間真之の背後から重くかぶさっていた。もし敵が津軽まわりをしてくれば真之が樹（た） てた七段構えの戦法は根底（こんてい） から崩されざるを得ず、いそぎ津軽へ駆けつけたところで、時間・空間という物理的制約のために敵をいくらも沈められない。対馬コースをとってきてくれれば、真之は予定した作戦計画通りに敵を迎えることが出来、ウラジオストックまでの間、十分な時間とゆたかな空間を戦闘に使うことが出来るのである。
戦術家というのは、 「敵が予想通りに来る」 というこのふしぎな瞬間に賭けているようなこのであり、戦術家としての仕事はほとんどはこの瞬間に完成する。
となれば、真之が勝利感を味わったのはこの 「敵艦隊見ゆ」 の瞬間であった。あとは東郷という用兵者の用兵能力と連合艦隊の構成員の練度や士気が勝利を具体的なものにしてゆくにちがいない。
いじれにしても、真之は狂喜した。
真之の苦悩のあげくのこの狂喜は、彼をして不可思議な力を感じせしめるもとになった、この 「ふしぎな瞬間」 は人間を越えた力がもたらしてきてくれたのではないか、ということである。