〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-T』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/07/21 (火) 

敵 艦 見 ゆ (五)

信濃丸にもっとも近い場所で哨戒に当っていたのは、三等巡洋艦和泉 (二九五〇トン) である。
この時期、二、三等巡洋艦のうち艦齢の新しい何隻かは国産でつくられていた。新高、対馬、音羽、秋津洲、明石、須磨などがそうであったが、すでに艦齢二十一年というほどに老いてしまっている和泉は、英国製であった。
和泉の艦長石田一郎大佐は信濃丸からの第一報を受信した時、自分の艦が信濃丸のもっとも近くにいることを考え、
「わが艦が、全艦隊の犠牲たらざるべからず」
と決断し、速力を増してバルチック艦隊と交叉するであろう地点を求めて航進を開始した。
石田にすれば信濃丸は汽船にすぎない。しかし和泉は保護甲板の厚さが〇・五インチから一インチというブリキのような小型巡洋艦とはいえ、軍艦は軍艦であった。速力も新型の国産艦ほどはないとはいえ、敵の巡洋艦に対抗できる砲力を持っている。和泉は信濃丸とその危険な任務を交代すべきであった。むろん敵艦隊に接触すれば撃沈させられる公算が大きかったが、しかし石田は、
「わが連合艦隊にとって、和泉一艦を失っても戦力にさほどのマイナスにはならない。それより和泉が敵艦隊に接触することによってその状況を逐一司令部に送ることの方がはるかにプラスになる」
と考えた。
和泉は二本マストに二本煙突で、じつに簡潔な艦型をもっている。波が高く、艦がゆれや。艦首に砕ける波は、前甲板をいそがしく洗ってはふたたび海に去って行く。当時少尉候補生であった和泉に乗っていた嶋田繁太郎しげたろう (のち大将) は 「ローリングのひどい艦だった」 という述懐を残している。
索敵さくてき は長い時間を要した。午前四時四十五分に信濃丸からの無電を感じ取ってからほぼ二時間。早朝の海を駆け回った。海上には濛気が、走り行くに従ってときに濃くなったり、ときに淡くなったりしたが、しかし空は申し分なく晴れていた。
和泉が、沖合いに無数の黒煙をあげて航進するバルチック艦隊を見たのは、午前六時四十五分である。
北緯三十三度三十分、東経百二十八度五十分、五島の北西三十海里の地点においてである。おりから濛気が濃くなり、展望はわずか五、六海里であった。この濛気のために和泉はより接近するしかなかった。しかし接近すれば敵に射たれるであろう。
が、和泉は猛然と接近した。距離が縮まってついに八、九千メートルにすぎなくなった。
石田は望遠鏡をもって、陣形を見、艦数を数えた。
望遠鏡に写る敵の大艦たちは、すでに和泉に気づいていただけでなく、その巨砲群をねじむけてこの小さな猟犬に向かって照準をつけつつあった。
しかし、石田は観察と報告に没頭した。艦を。敵艦隊に並進させた。
その間、バルチック艦隊の勢力、陣形、針路などをじつに綿密に報告した。東郷はのちに、
「自分は、敵艦隊のすべてを、敵に う前に手にとるように知りつくしていた。それは和泉の功績である」
と言った。和泉は東郷のために忠実な目になろうとしていた。ただ一艦をもって、世界有数の連合艦隊に立ち向かっているのである。この和泉の行動を、この当時、大本営参謀だった小笠原長生が、小牧こまき 長久手ながくて の戦いにおける徳川方の本多平八郎忠勝の果敢な接触 (秀吉軍への) に比較しているが、たしかに状況と行動は酷似していた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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