成川は、戦死を決意したらしい。 哨戒に熱中するあまり、ひどく滑稽なことに、気がついたときは敵の大艦隊の真っ只中に入り込んでしまっていたというようなことは、世界の海戦史上例のないことであった。すでに形態としては包囲環の中にいる以上、脱出は不可能とみるしかない。 成川は船橋
にいる士官たちに言った。彼自身気づかないことだったが、口調が漢文調になっていた。 「不覚なるかな、すでにわれらは死地に入った。全力をもって脱出を試みるもあるいは能わざるkとあるべし。そのときこそ、この船非力ながらも敵の一艦を求め、激しく衝撃してともに沈むべし」 ただ、この発見を鎮海湾の東郷閣下に報せねばならない、と成川は言った。送信を開始すれば当然、敵は電波で妨害する一方、砲をもって信濃丸そのものを無線機もろとも沈めるに違いない。 「船が浮かんでいる限り送信をつづけるのだ」 と言うと、転舵一杯を命じた。船は傾かし
ぎ、波が右舷に盛り上がって、たちまち甲板を洗い、やがて左舷の方へ滝のように流れ落ちた。船は離脱すべく全速力を出した。と同時に、 「敵艦隊見ゆ」 との電波が、四方に飛んだ。この付近のことを、海軍ではあらかじめ二〇三地点としておいた。この電信は正確に言えば、 敵の艦隊、二〇三地点に見ゆ、時に午前四時四十五分」 であった。二〇三という数字は、旅順要塞の攻撃の最大の難所であり、同時にそれを解決せしむるにいたった高地の標高と符号していた。成川の船はこの数字を打電しつづけた。御幣ごへい
担ぎではなかったが、この数字から見て今日幕を上げるであろう日露両海運の決戦は容易ならざるものになるのではないかと思った。 彼の船には、海軍技師木村駿吉がリーダーになって完成し、世界でもっとも性能のいい船舶用無線機とされる三六式無線電信機が積まれており、その通信距離は八十海里であった。木村ははや打ちをいましめ、遅くとも確実に打つことを海軍に勧めていた。信濃丸の無電は、遅く確実に、繰りかえし同じ言葉が打たれた。
信濃丸の行動のおもしろさは、無電を打ちっぱなして逃げ切ったわけではなかったことである。 この船はある地点まで脱出すると、バルチック艦隊にしつこく接触をもちはじめたのである。 第二報では、敵の針路を報せた。 「敵針路、東北東、対馬東水道
(対馬海峡) に向かうものの如し」 信濃丸はその後なお執拗に食い下がり、午前六時五分になって、ふたたび無電を打った。 「敵針路、不動、対馬東水道を指す」 これが決定的な報告になった。 この信濃丸の第一報の打電と急転離脱という行動に対し、バルチック艦隊は気づかなかったようであった。ひとつには暁闇ぎょうあん
の中での出来事だったことと、バルチック艦隊の見張員が、連日の緊張で目が疲れていたのかも知れなかった。 もっとも駆逐艦二隻が追って来たという光景を信濃丸の乗員のすべてが見ている。しかも濃霧が流れてきて信濃丸を包んだために脱出できた。もっとも戦後バルチック艦隊の捕虜の証言では、 「信濃丸を見おとした」 と言っており、この駆逐艦二隻の追跡は謎のままになっている。幻覚かも知れなかった。 |