このうち信濃丸というのがあった。二本マストに高い一本煙突を持ち、総トン六三八八トンの鋼船で、大佐成川揆
が艦長として指揮し、連日、そのひょろ高い煙突から煙を吐きつつ所定水域を遊弋ゆうよく
していた。 信濃丸は明治三十三年に竣工した貨客船で、日本郵船が同社最大の持ち船として横浜とシアトル間の定期航路に使っていた。 話がいきなり後年のことになるが、日本船舶史上信濃丸ほどよく働いた船はなかった。 この船は日露戦争ののち再びアメリカ航路に復したが、その後船舶の進歩のために第二線の仕事にまわって近海航路で働いた。さらにそこからもはずされて漁船になり、北洋のサケ・マスの漁業の母船として仕事していたが、太平洋戦争の敗戦とともに北洋の現場から引き戻され、南方の復員軍人を母国に運ぶ仕事をした。大岡昇平氏の名作
「俘虜記」 の主人公をフィリピンまで迎えにやって来るのはこの 「信濃丸」 であった。 昭和二十六年ついに解体されスクラップになってしまうが、その劇的要素に富んだ稼動かどう
生涯は、じつに五十年である。 哨戒艦としての信濃丸は、その僚艦とともに四月九日以来ずっとこの洋上で働きづめであった。 長崎県の五島ごとう
列島に白瀬という小島が、列島から遠く西へ離れて、東シナ海に突き出て浮かんでいる。かつては五島の漁師しか知らなかったこの岩礁は、この時期には燈台も設けられて航海者にとって重要な島になっていた。 「白瀬」
という岩礁が、この方面を担当する哨戒部隊が位置を示すためのひとつの基準になったいる。 たとえば、哨戒任務に当っている第三戦隊はこのとき白瀬の北西方を遊弋していた。
汽船に砲を乗せただけの仮装巡洋艦の群れは、この白瀬の西方にじゅず・・・
つなぎになっておのおの指定区域内を遊弋していた。亜米利加丸、佐渡丸、信濃丸、満州丸、八幡丸、台南丸が、そのグループである。さらにこれと接近した当方には、三等巡洋艦の和泉と秋津洲が波を泡あわ
立たせて走り回っていた。 信濃丸は北東に進んでいた。この五月二十六日夜が更ふ
けてから浪が高くなった。二十七日の午前二時ごろになると南西の風が相当激しくなり、見張りをする者たちはマストやロープに鳴る風に声を吹きちぎられて、よほどの大声を張り上げなければゆいそばの者に意思を伝えることも出来なかった。 霧も濃くなっていた。ときどき霧が薄くなったが、わずかに月の光が黒い雲間ににじんでいるのみで、星も見えなかった。 昨二十六日、鎮海湾の三笠は、
「ロシアの運送船六隻が上海港に入った」 という情報を得て、ほぼバルチック艦隊が対馬コースをやって来るという確信を得ていたが、そのことを信濃丸の艦長成川揆は知らなかった。彼は哨戒だけをしれいればよく、そういう情報を知る必要もなかった。 彼は着実な勤務をつづけていた。 午前二時四十五分、船橋ブリッジ
でまどろんでいた彼はたれかに起こされて飛び起きた。 船橋には、黒い沈黙が支配していた。たれもが叫びだしそうな衝動をこらえつつ、左舷の闇の中にポツンと浮び上がった燈火を凝視していた。 (バルチック艦隊ではないか。・・・・) と、たれもが一様にその疑念を持った。しかしたれもが息を詰め、声を出さず、針で突けば弾はじ
け割れそうななにかに懸命に堪えていた。 これが、バルチック艦隊の病院船アリョール (偶然ながら戦艦アリョールと同じ名)
であることは、この瞬間の信濃丸にはむろんわからなかった。バルチック艦隊においては、この夜間航海にあたって全艦隊に無燈火を命じた。無電も禁止した。ところが病院船アリョールのみは、同船の不注意によるものか、それとも理由があってのことか、無燈火の命令に従わなかった。 理由があってのこととすれば、おそらく、 「病院船はヘーグ条約によって中立侵べからずということになっている。だから点燈してもいい」 ということだったであろう。もしそうなら、この病院船は全艦隊の存在を日本側に知らせるために航海しているようなものであった。なぜなら病院船がいるということは、そのあたりに巨大な艦隊が航進しているということであり、そういう推断は子供でも下せることであった。 |