東郷艦隊の砲術について。 鎮海湾における東郷は、徹頭徹尾、射撃能力を高めることに主眼をおいたが、その戦策においても画期的な方法を採用した。 「一艦の砲火の指揮は、艦橋において掌握
する」 というものであった。 これを具体的に言えば、その艦の砲術長が艦の砲塔砲なり副砲なりをとわず、すべての砲の射撃を、その命令ひとつで決めてゆくというやり方で、各砲が各個
(独立打ち方) にはやらない。 このため、砲火指揮をする砲術長は見とおしのきく艦橋にのぼっていて、この艦橋で距離を測り、 「発射用意」 の予令をメガホンで発し、その射距離を言って各砲いっせいにその射距離で発射せしめる。射距離は砲台が勝手に集成することは許さない。このため命令伝達法がぬずかしく、とくに実戦の場合、敵味方各艦の砲声がとどろき、艦橋にいる砲術長の声が伝令の耳に聞こえなくなるおそれもある。理想的には伝声管が各砲郭まで直接設備されていればよいが、この新方法が採用されたときには、そういう装置をつける時間的余裕はむろんなかった。 この新方法は東郷が採用したが、創案者は去年の八月十日の黄海海戦のとき三笠の砲術長だった加藤寛治少佐であった。加藤はかねてこの理論を思いつき、朝日の砲術長時代にこれの理論をもって各砲を訓練し、三笠に転じたとき、伊地知彦次郎艦長に進言して絶賛を受け、採用された。 この方式は、前述のように黄海海戦で実用化されたのだが、これを見て驚嘆したのは、当時三笠に乗っていた英国の観戦武官ペケナム大佐であった。 ペケナムは最初、砲術長が艦橋にのぼっているという点でもおどろいた。いよいよ砲戦が開始された時、砲術長の号令一下、砲台砲および一舷の副砲がいっせいに砲弾を敵に向かって送り出したのである。 ペケナムはすぐこのことを英国海軍省に対して報告したが、きわめて偶然なことに、英国海軍にあってもほぼ同時にパーシー・スコットという海軍少将がこれを創案し、Broadsidesfring
(一斉打ち方) として、すでに実施の段階に入っていた。 加藤寛治はこの黄海海戦のあと海軍省副官として陸へあがってしまうのだが、その前に、これについての研究報告を書き、 「八月十日の黄海海戦において、砲火の指揮に関し得たる実験要領」 という題で東郷に提出した。 東郷は一読して感心し、これを真之ら幕僚にはかり、各艦の砲術長にも検討させて、来るべきバルチック艦隊との決戦にはこの砲戦指揮法を用いることを決定したのである。 ただこの場合、砲術長の命令に応ずるように各砲台分隊長を訓練せねばならぬことが重要であった。さらには鳴りはためく砲声と砲火の中で砲術長の声をよく聴きわける伝令が必要であり、この点では三笠の場合は軍楽手を伝令にしたために重宝だったということになる。 |